第十三章 極光(オーロラ)と熱い涙

 

 運命は、最後の最後でその扉を開いた。


 イエローナイフでの滞在も、ついに最終夜を迎えた。四夜連続の観賞チャンスを謳った百二十万円のプレミアムツアーも、残された時間はあと数時間。


空を覆い続けていた厚い雲は、まるでエライジャの魔法が効いたかのように、夜更けとともに音もなく消え去っていった。

 

 希は、凍てつく雪原の中、他の参加者たちから少し離れた場所に一人で立っていた。


 マイナス三十五度の静寂。極限の寒さの中で、彼女はバッグから母の遺影と、ライブチケットを取り出した。


 左腕の袖の下、数字は34を指している。


(お母さん、ここが……お母さんの見たかった場所だよ)

 

 極北の夜空に、最初は薄い煙のような白い筋が現れた。それが次第に意思を持つ生き物のようにうねり始め、瞬く間に視界を覆い尽くす鮮やかなエメラルドグリーンへと変貌していく。


(……あ)


 希は声を失った。


 視覚が受け取れる情報の限界を超えている。それは、かつて古いリビングのテレビ画面で見た、ノイズ混じりの映像とは根本的に違っていた。

 

 耳の奥を突き抜けるような、完全なる静寂。

その中で、巨大な光のカーテンが翻るたび、高層大気が摩擦を起こしているような「サ、ササッ……」という乾いた、けれど柔らかな音が聞こえる気がした。


 鼻を抜ける空気は、凍りついたダイヤモンドを吸い込んでいるかのように鋭く、透明だ。

生活の匂いなど何一つない、原始の宇宙の匂いがした。


「お母さん……」


 震える声が、白い霧となって闇に溶ける。


 幼い頃、母と図鑑を広げて「これ、本当に本物なのかな?」「CGじゃないの?」と笑い合った。あの頃の二人にとって、オーロラは月や星よりも遠い、おとぎ話の中の描き物でしかなかった。


『死ぬ前に、一度でいいから本物を見てみたいね』


 カサカサに荒れた手で希の頭を撫でながら、母がこぼしたあの言葉。



「お母さん、見てる……? これ、オーロラだよ。CGなんかじゃなかった。本当に、あったんだね……」



 熱いものが、こみ上げた。


 マイナス三十五度の世界では、流れた瞬間に凍りつくはずの涙。


けれど、今、希の頬を伝う雫は、驚くほど熱く、確かな温度を持って肌を滑り落ちていく。


 それは、彼女が「効率」のために押し殺してきた、感情という名の脈動だった。


「すごいね……本当に、きれいだね……っ」



 視界が滲む。

 


 天を舞う光は、激しさを増していった。グリーンの中にピンクや紫の縁取りが混ざり合い、生き物のようにのたうち、爆発し、夜空という名のキャンバスを我が物顔で塗り替えていく。

 


 希は、天を見上げたまま、何度も何度も「ありがとうございます」と繰り返した。


 自分を産んでくれたことへの感謝。


 五千万円という愛の盾を遺してくれたことへの感謝。


 そして、この絶景を見るために、今日まで生かしてくれた運命への感謝。

 


 左腕の34という数字が、オーロラの光を反射して淡く瞬いた。


 かつては死への足音にしか聞こえなかったカウントダウン。けれど今の希にとって、それは一分一秒を慈しむための、命の輝きそのものに変わっていた。

 

 明朝にはこの地を発ち、数日かけて再び日常の待つ日本へと向かう。


 希は、光り輝く天を抱きしめるように両手を広げ、極寒の雪原でいつまでも泣き続けていた。



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続きは明日20時に投稿します。