第十四章 帰国、そして再生の準備


 成田空港に降り立った希を待っていたのは、イエローナイフの刺すような冷気とは対照的な、湿り気を帯びた日本の冬の風だった。


 重いスーツケースを引き、到着ロビーへ向かう。


かつての希なら、人混みを避けるように肩をすぼめ、足早に駅へ向かっていただろう。

けれど今の彼女は、自動ドアが開くたびに肌をなでる柔らかな空気の動きにさえ、かすかな愛おしさを覚えていた。


「あ、すみませ……。いえ、ありがとうございます」


 エレベーターで場所を譲ってくれた旅行客に、希は自然な微笑みを浮かべて頭を下げた。


 イエローナイフでエライジャに授けられた

「魔法の言葉」

は、日本に戻ってからも、希の心に温かな火を灯し続けていた。


コンビニで飲み物を買うとき。タクシーを降りるとき。外食を終え、「ご馳走さまでした。美味しかったです」と言葉を添えるとき。


 感謝を口にするたびに、胸の奥に澱のように溜まっていた「死」への恐怖が、少しずつ形を変えていく。


それはもう、避けられない絶望ではなく、今日という一日を懸命に生ききったという、確かな証に変わり始めていた。



 アパートに戻った希は、左腕の袖をゆっくりとまくり上げた。

 そこには「30」という数字が、静かに浮かんでいる。

 100から始まったカウントダウンも、残りはあと三十日。一ヶ月後、この数字がゼロになったときに何が起こるのか、それは誰にもわからない。


けれど今の希には、その先に待つ「もう一つの数字」がはっきりと見えていた。


 彼女はチェストの上に、母の遺影と二枚のチケットを並べた。


 101日目のライブチケット。


 母が、希と一緒に見ることを夢見て手に入れた、母が心から愛したアーティストのプラチナチケットだ。


 希はクローゼットの奥から、一着のワンピースを取り出した。


 かつて母が「あんたにはこういう色が似合うわよ」と勧めてくれた、落ち着いた紺色のワンピース。

当時は「地味すぎる」と袖を通すことさえしなかったが、今改めて見つめると、それは驚くほど上品で、大人の女性としてのしなやかな強さを秘めているように感じられた。


(お母さん。私、準備を始めるね)


 希は、母が遺してくれた五千万円という遺産を見つめた。


 これからは、このお金を単なる「数字」として抱え込むのではない。お母さんが当たり前のように用意してくれていた「人生の続き」のために、大切に使っていこうと決めていた。


 希は、ライブ会場へ持っていくための小さなバッグを新調した。その中には、母の遺影がちょうど収まる。


 カウントダウンが「29」「28」と刻まれていく中で、希は疎遠になっていた地元の友人に手紙を書いたり、かつての職場の上司へ感謝のメールを送ったりして過ごした。



 そして、ついにその日が近づいてくる。


 一秒一秒を慈しむように生きる希の表情からは、かつての険しさは消え、穏やかな光が宿っていた。


 あと数日。

 それは死を待つための時間ではなく、亡き母をライブ会場へ連れて行くための、大切な準備期間として静かに過ぎていった。


***

続きは明日20時に更新します。