第十五章 紺のドレスと白のシーツ


左腕の数字が、ついに残り「10」に達した。


100から始まったこの猶予も、残されているのはあと十日。

明日になれば数字は「9」となり、いよいよ一桁の秒読みが始まる。

かつての希なら、この数字をただの死への期限として眺めていただろう。

けれど、今の彼女は、一分一秒を「消費」するのではなく、「慈しむ」ようになっていた。



ある日、希はかつて新卒で入社したばかりの頃に通い詰めていた、下町の小さな弁当屋を訪れた。

六年ぶりの店は、看板こそ色褪せていたが、相変わらず揚げ物の香ばしい匂いに満ちていた。


厨房では見慣れない中年男性が忙しく立ち働いていたが、レジの横にある椅子には、あの頃「老婆」だと思っていた店主がさらに小さくなって座り、黙々と袋詰めを手伝っていた。


希は、当時は手が出せなかった一番高い幕の内弁当を注文した。

会計の際、袋を受け取りながら、希は勇気を出してその老婆の目を見つめた。


「……あの、私、六年前によくここに来ていた者です。いつも美味しいお弁当をありがとうございました。あの頃は余裕がなくて、一度もきちんとお礼を言えなくて……。本当に、ご馳走さまでした」


老婆は一瞬、不思議そうに希を見たが、やがて何かを思い出したように、深く刻まれた皺をさらに深くして笑った。


「ああ……、あのアスファルトを睨みつけて歩いてたお嬢さんかい。……そうかい。わざわざ、ありがとうねえ。あんた、今はいい顔をしてるよ」


たった一言の「ありがとう」で、殺伐としていた過去の記憶が、温かな思い出へと塗り替えられていく。


(私、今までどれだけの『ありがとう』を飲み込んできたんだろう。……生きたい。もっと、この言葉を誰かに届けたい)


希の瞳に、熱い「生」への執着が溢れ出した。


その足で、希は母が最期まで入院していた緩和ケア病棟を訪れた。

母を支え続けてくれた看護師たちに、直接言葉を伝えるためだ。


「……母がお世話になりました。本当に、ありがとうございました」


深々と頭を下げた希に、ベテランの看護師は穏やかな笑みを浮かべ、小さなボイスレコーダーを差し出した。


「結城さん、実はお母様から預かっていたんです。『もし娘が、誰かに感謝を伝えられるほど心に余裕を持ってここへ戻ってきたら、その時に渡してほしい』と言われていて」


病院の中庭のベンチで、希は震える指で再生ボタンを押した。そこからは、掠れてはいるが、紛れもない母の優しい声が流れてきた。


『希、ここに来てくれたんだね。ありがとう。……お母さんはね、希が一人で生きていくのが心配だったんじゃない。希が一人で「幸せ」を諦めてしまうのが怖かったの。』


不意に、母との日々の情景が、鮮やかなフラッシュバックとなって希の脳裏を駆け抜けた。


狭いキッチンで、肩を並べて作った質素な夕食。

特売の卵焼きがうまく巻けただけで、二人で顔を見合わせて笑ったこと。

たまの贅沢にと出かけたショッピング。母が「あんたにはこれが似合う」と、自分の服より熱心に紺色のワンピースを選んでくれたこと。

テーマパークで一緒に見たパレード、一緒に乗った観覧車。


『希、ごめんね。一緒にいた頃なかなか自由にさせてあげられなくて。お母さんの過干渉で希を苦しめていたなら本当に許して。でもね、お母さんは希という娘に出会えた自分の人生に、心から感謝しているわ』


一呼吸、ノイズが混じる。


『家の金庫に、私の好きなアーティストのライブチケットを二枚入れてあるわ。希は絶対に行って。お母さんの分まで、思いっきり楽しんで。約束よ』


希はボイスレコーダーを握りしめ、声もなく泣いた。


母は、希がいつか再びこの場所へ戻ってくることをただ静かに願って、この言葉を残してくれていたのだ。


母が遺してくれた五千万円という愛の盾も、あの二枚のチケットも、すべては希が100の先にある未来へ踏み出すための、母が遺した「道標」だった。


9、8、7……。


一桁になった数字は、以前よりも速く、残酷に削られていくように感じられた。

「生きたい」と願えば願うほど、かつてないほどの死への恐怖が希を襲う。


希は、狂おしいほどの「生」への執着を抱えながら、それでも静かに「死」への支度を整えた。


マンションの解約手続きや身の回りの処分を完璧に終わらせ、母から受け取った「自由」をどう次へ繋ぐか、遺言書に認めた。


そして、カウントダウンが「2」を指した夜。

希は寝室の椅子の上に、二つの遺志を並べた。


一つは、母との約束を果たし、101日目の会場へ行くための、紺色のワンピース。

もう一つは、自分がいなくなった時のための、真っ白な死装束代わりのシーツ。


生への渇望と、死への覚悟。二つの感情に引き裂かれそうになりながら、希は母の遺影に向かって、今日という一日に感謝を告げた。


「ありがとうございます。……明日、私はどっちを着るのかな」


そして、時計の針が重なり、日付が変わった。


左腕の数字は、静かに、けれど決定的な重みを持って「1」へと変わる。


左腕に灯る「1」という数字。

これが彼女を縛り付ける最後の一日となるのか、それとも、エライジャが言った「役目を終え、結び目に変わるための通過点」となるのか。

答えはまだ出ない。


けれど、彼女の人生で最も長く、そして最も短い二十四時間が、今、静かに幕を開けた。


***

続きは明日20時に更新します。