第十六章 0、最後の一片、アーモンドフロランタン


朝の光が、これまでにないほど鮮やかに部屋へ差し込んでいた。


希はゆっくりと身を起こし、左腕を見た。

そこには変わらず「1」という数字が居座っている。


この数字が消えるまで、あと二十四時間もない。


今日という一日を、一分一秒たりとも悔いなく使い切る。


それは、効率を求めていたかつての彼女が最も苦手とし、そして今、最も求めている生き方だった。



希はまず、家中を丁寧に掃除した。


これまで自分を守ってくれた屋根、床、家具。

その一つひとつに触れながら、心の中で「ありがとうございます」と語りかけた。

磨き上げられた窓から見える空は、驚くほど高く、澄み渡っている。


昼下がりには、ただ風の音を聞き、ただ太陽の熱を肌に感じて過ごした。


何もしない時間の贅沢さが、かつての分刻みのスケジュールよりもずっと、彼女の魂を潤していく。


一秒が過ぎるたび、その瞬間に自分が「生きている」ことを、希は全身で噛み締めていた。



陽が沈み、最後の夜が訪れた。


希はシャワーを浴び、髪を丁寧に乾かした後、ベッドの横の椅子に目をやった。


そこには、二組の衣装が静かに並んでいる。


• 母と約束した101日目のライブ会場へ行くための、紺色のワンピース


• そして、もしもの時のための、汚れ一つない白いシーツ


希は、それらを椅子に残したまま、あえて使い古したいつものパジャマに袖を通した。

特別な装いよりも、毎日をともに過ごしてきたこの布の柔らかさが、今の彼女には何よりも心地よかった。



眠りにつく前、彼女はキッチンへ向かった。

大切に取っておいた、一番の大好物である焼き菓子――アーモンドフロランタンを、皿に一枚だけ乗せる。


ザクッとした歯ごたえとともに、キャラメルの甘みとアーモンドの香ばしさが口いっぱいに広がった。


「……美味しい。ありがとうございます」


かつては食事さえも「栄養の摂取」という数字でしか見ていなかった。

けれど今、この一片の菓子がもたらす幸福感は、どんな高価な食事よりも希を力づけていた。


希はベッドに横たわり、母の遺影と101日目のチケットを胸に抱いた。



夜が深まっていく。


一分一秒が過ぎるたび、左腕の「1」が、消えかかった電球のように微かに震えている気がした。


午後十一時五十九分。


彼女は静かに目を閉じた。



(お母さん、生んでくれてありがとう。……魔法の言葉を教えてくれて、ありがとう。私は、幸せでした)



心臓の鼓動が、一際大きく鳴り響く。



そして――時計の針が、零時を告げた。



左腕の数字が、音もなく、光を失うように「0」へと切り替わった。


***

続きは明日20時に更新します。