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第五章 緩和(やすらぎ)という名の甘い誤読



「お母さん、東京の病院に来て。私が毎日通えるところに」


実家の湿った空気の中で、希は母の痩せた手を強く握りしめた。


地元での残酷な宣告を、希の脳は本能的に拒絶していた。

最新の設備が整った都心の大学病院なら、何か奇跡的な治療法が見つかるはずだ。


希は数日のうちに紹介状の手配と転院の準備を整えた。


高層ビルに囲まれた巨大な大学病院の白い病棟へ、母は移ってきた。


それが、希にとっての「二重生活」の始まりだった。


午前八時、出勤。オフィスでは、完璧なプロジェクトリーダーを演じる。

午後十八時、定時と同時にデスクを離れる。



「結城さん、今日も早いね。何かあった?」



背後から飛んでくる同僚の声を、希は生返事でやり過ごす。

昨日まであれほど執着していた仕事も、今の希にとっては、母の体温を維持するための資金を得るための、ただの記号に成り下がっていた。


病院へ向かう電車の中、希は無意識にスマートフォンの画面をなぞる。



『ステージ4 末期がん 生還 奇跡』

『癌が消える食事 民間療法 最新』



かつて帳簿の数字一円の狂いさえ許さなかった希が、今、縋り付いているのは、根拠不明の健康食品の広告だった。



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週末の早朝。

希は、オフィス街の片隅に佇む古い神社を訪れた。


ビジネスパーソンの姿のまま、彼女は不慣れな手つきで賽銭箱に五千円札を投げ入れた。



「……お願いします。お母さんを助けてください」



(お母さんを助けて。もし代わりが必要なら、私の時間をいくらでも差し出しますから)




自分の腕にある数字と、母の命。それを天秤にかけるような、狂気的な祈りが胸を締め付ける。



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ある日の夕暮れ。大学病院の主治医から、希は静かな診察室に呼ばれた。


「結城さん。お母様の現状ですが、今の一般病棟での治療では痛みを抑えきれなくなってきています。……そこで、当院の『緩和ケア病棟』へ移ることをお勧めします」


主治医の言葉に、希は一瞬だけ身を強張らせた。

けれど、医師が続けた「あちらなら、より専門的に苦痛を取り除くチームが付きます」という説明に、希は縋り付いた。



(痛みが和らぐなら……。お母さんが、楽になれるなら)



「お願いします。……それで母が楽になるなら、ぜひそうしてください」



希は迷いなく承諾した。

緩和ケアという響きに、彼女は勝手な一筋の光明を見出していた。


痛みを和らげて、体を楽にする場所。

そうすれば、お母さんはまた歩けるようになる。体力が戻れば、また次の治療に挑戦できるはずだ。


それが治療の断念ではなく、回復のための必要なステップだと信じて疑わなかった。



「良かったね、お母さん。もっと楽になれる病棟に移れるって。そこでゆっくりして、元気になろう」


ベッドの横でそう語りかける希に、母は悲しそうに微笑んで、「そうね」とだけ言った。



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その日の夜、希の左腕の数字は、無情にも「60」へと減少していた。


完璧な人生という名の砂時計が、その底から着実に砂を漏らし続けていることに、彼女はまだ気づかない振りをしていた。


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今回の章のテーマである「緩和(やすらぎ)」。

物語の中では切ない誤読として描かれましたが、現実の私たちにとっても、心穏やかに過ごせる時間は何より大切なものです。

暮らしの中に小さな「やすらぎ」を添えてくれる、素敵なものたちをご紹介します