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 第六章 独りよがりの再会



 緩和ケア病棟の空気は、それまでいた一般病棟の喧騒とは明らかに異なっていた。


廊下には柔らかな間接照明が灯り、消毒液の匂いよりも、どこか遠くで焚かれたアロマのような、静かな香りが漂っている。


 母が移ったのは、南向きの大きな窓がある個室だった。痛みはコントロールされ、母の表情からはかつての険しさが消えていた。


けれど、それと引き換えにするように、母が目を開けている時間は一日の中で目に見えて減っていた。


「結城さん、お母様、昔から猫を飼っていらしたんですよね?」


 ある日、担当の看護師が希に声をかけた。


母が大切にしていた三毛猫のクッキーを、今は希のマンションで預かっていると話したからだ。


「ここなら、動物を連れてきても大丈夫ですよ。お母様も、きっと喜ばれるはずです」


 その提案は、希にとって暗闇に差し込んだ一条の光だった。



(そうだ、クッキーがいれば、お母さんももっと元気になるかもしれない。昔みたいに笑ってくれるかもしれない)



 希はすぐに準備を整えた。


動物を連れてくる際は、他の患者に配慮して、専用の裏口から別ルートを通るのがルールだ。


キャリーケースの中で不安そうに鳴くクッキーを抱え、希は緊張した面持ちで、普段は使わない貨物用に近いエレベーターに乗り込んだ。



 病室の扉を静かに開ける。

母は今日も、白いシーツに埋もれるようにして眠っていた。


「お母さん。見て、サプライズだよ」


 希は弾んだ声で語りかけ、ベッドの横にキャリーケースを置いた。母がゆっくりと、重そうに瞼を持ち上げる。


「クッキーを連れてきたよ! 会いたかったでしょ?」


 希は期待に胸を膨らませながら、キャリーケースのファスナーをゆっくりと開いた。


 しかし、中から出てきたクッキーは、希が思い描いたような感動の再会を見せなかった。


極度の人見知りで場所見知りな猫にとって、知らない匂いに満ちた病室は恐怖の対象でしかなかった。


クッキーは毛を逆立て、希の制止を振り切ると、脱兎のごとくベッドの下へと潜り込んでしまった。


「あ、クッキー! 出ておいで」


 希は焦ってベッドの下を覗き込んだが、クッキーは奥の隅で小さく丸まり、低く唸り声を上げている。


「……希、もういいから」


 低く、掠れた母の声が部屋に響いた。


 希が顔を上げると、母は喜ぶどころか、ひどく疲れ切ったような目で天井を見つめていた。



「……そんなことしなくていいのよ。クッキーが、かわいそうよ」


「でも、お母さんのために……」


「もういいの。連れて帰って。……疲れちゃった」



 拒絶だった。


 良かれと思ってしたことが、母にとってはただの負担でしかなかった。


今の母には、猫と触れ合う気力も、懐かしさに浸る体力も残されていなかったのだ。


希は自分の独りよがりな期待が、音を立てて崩れていくのを感じた。


 希は無言のまま、ベッドの下に腕を差し入れた。シャーという威嚇の声を無視し、逃げ惑うクッキーの体を力任せに引きずり出す。


腕に爪が食い込み、鋭い痛みが走ったが、今の希にはそれすら遠い出来事のように感じられた。


暴れるクッキーを無理やりキャリーケースに押し戻し、乱暴にファスナーを閉める。


「……ごめん。また来るね」


 希は母の顔を見ることができず、逃げるように病室を後にした。


 再び別ルートの薄暗い廊下を歩く。手の中のキャリーケースが、絶望的な重さで希の腕を引っ張る。エレベーターの鏡に映った自分の顔は、驚くほど憔悴していた。


 袖をまくる。左腕の数字は、ついに53を示していた。


 母の時間は、もう希の手の届かないところへ行こうとしている。


良くなると信じて疑わなかった「緩和ケア」の静寂が、今は、母をこの世界から少しずつ切り離していく、残酷な断絶の音に聞こえていた。



***


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誰かを想う気持ちが重荷になってしまう、切ない断絶の音。

静かな病室で希が感じた孤独は、現代を生きる私たちのどこかにも潜んでいる気がします。

凍えた心に、そっと温度を灯してくれるような。

物語の余韻とともに、穏やかな時間を過ごせるものを選んでみました。