私はどうも解脱してたらしい
というのは
私の認知が子供の頃から
変換を見る事が好きだった
名前も知らない
見上げた先に動いてるモノが
ゆっくり流れていた
その後で雲と言う名前を知ったんだ
多くの人は経験したが
忘れているのかもしれないですが
人はそうやって名前を知る
しかし、
私は常に変化を先に見て後から
名前を知る人生
先に名前を知っても
変化がわからなければ
忘れてしまう
何十年もそうやって生きてたら
名前が付く前を
空とか無とか言うんだそうだ
真我とか言うらしいよ、コレ
真我という名前も後から付けられた名前
私には子供の頃から見慣れた景色だから
例えば
良く遊びにくる猫を
タマ、と呼んでたら
ある日首輪にマサル
とか付いてた感じだろうね
私には解脱というのも
後から付けられた名前だから
コレが解脱か!
とはならず、解脱って言う人達がいるんだなー
としか思えない
そして、
私の場合
この解脱らしいところでは
幸せや不幸せ
善悪のような
名前が最初にあって
それを使うという考え方が合わないのです
なぜなら
私の頭の中で
必ず
反対意見や視点が違う意見がいくつもあり
どれを使うかなので
その瞬間の相手と場によって、
言葉も価値観も変わってしまう
仏教では、コレを方便という名前らしいです
この一連を事実から、解脱という名前がつけられる
だから、解脱してたらしいです
最後に
悟ったとしても解脱したとしても
何も変わりません
起きる事は同じなのです
そして
苦が減る変わりに楽も減ります
コレは
苦を感じられるからこそ
楽も感じられるからですね
苦を苦として見えないと
楽も楽として見えない
人の生活に不要とも言えるでしょう
そして
悟りも解脱も、目指すモノではなく
気が付いたら
そう呼ばれる場所に
いるだけなのです❗
あ、忘れてた
未熟は完璧!