情報と言う暴力 | 何でもアル牢屋

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メディアは、ある意味、暴力なのかもしれない。自分が見たい聴きたいに関わらず、発信者は容赦なく情報を流してくる。此処で書く暴力と言う表現は<メディアは、いつだって一方通行>と言う意味。

逃れる術はある。見たくないなら見なければいい。聴きたくなければ聴かなければいい。まずはチャンネルを変える。それでも駄目そうなら電源を切る。テレビを消せば視聴率は上がらなくなる。視聴率が上がらなければテレビ局が困る。どうにも止まらないテレビの不景気は世間が悪いのではなく、100%作り手が悪いとしか言い様が無い。

一方的な情報と言う暴力を流された時、我々視聴者は観るのか観ないのかの選択に迫られる。多くの国民が観ないと言う選択肢を選ぶからテレビメディアは不景気になる。驚くべきは、テレビ関係者が現状に対し、何も変える必要は無いという判断の元に日々番組が制作されていると言う現実。それは居直りとも取れるし、開き直りとも取れるが、少なくとも前向きな精神ではない事だけはハッキリと伝わってくる。こっちだって努力してるんだ!と言うテレビ側からの言い分もあるだろうが、制作のプロともあろう立場が、伝わらない努力を延々と主張し続ける事に何の意味があるのか?何処の誰に対して何を見て貰いたいのか?
 

最近、テレビに出て来る有名人の発言を聞いてると「どうせ嫌われてますから」と言う台詞を笑いながら吐く。人気商売と言う職場に身を置きながら、よくその言葉が出て来るなと思うが、嫌われてる事を意識しながら発信を続けていると言う事は、これはもう一方的な暴力のばら撒きだろう。

見る側として出来る事は、観るか観ないかの選択しかない。見たくなきゃ見なきゃいいだろうみたいなヤクザなテレビタレントが増えた証拠だろう。別に驚く事は無い。芸能の起源は元々、ヤクザの世界なんだから。

ヤクザに対する世間の認知が甘いのは、ヤクザとは怖い人達の事だと思っている事。ヤクザだって感情のある人間だしロボットではないから<愉快で楽しいヤクザ>も当然ながら居る訳だ。明るく楽しいヤクザこそが芸能人と言い換える事も出来る。人は上っ面にまんまと騙される。自分のお気に入りの芸能人が悪さをすると手の平返して怒り出す。それで昭和の時代は刃物を持って刺しに行ったが、今はネットと言う間接的な飛び道具がある。流行言葉の炎上と言う奴。一人思い立って刺しに行くのと、目的が一致した知らない連中と徒党を組んで石を投げつけるのと、どちらが有意義な人生なんだろうか。
 

一方で、テレビに出たがらない有名人達に対して思うのは、彼等の殆どが忖度の出来ない性格で、喧嘩っ早い人が多いのではないか?

好きな事を喋らせろ、好きな歌を歌わせろ、好きな演技をさせろ。こういう主張に対し、現場は、それを許さない。だから喧嘩になる。喧嘩になりそうだから敢えて出ない。これを読んでる皆さんの中で、ポンと頭に浮かんだテレビに出ない人達には、そんな雰囲気を感じないだろうか?

その直感は多分、当たってると思う。