ロマネスクのばら | 秋田和徳ブログ『バラ・グラフィック』

ロマネスクのばら






2003年のある日のこと。
初対面の方々との仕事の席で、ボクは
差し出された1枚の名刺に釘付けになりました。

「いや、字が違うかもしれない」と、
いまひとつハッキリしない記憶を必死でたぐり寄せながら、
ミーティングの合間にもボクはふと、
10代の頃にタイムスリップしていました。





*
『魅惑劇』と題された、
ノヴェラのデビュー・アルバムの広告を見たのは、
間もなく15歳を迎えようとしていた中学3年の冬。

ジャケットを飾る絵は、
ピート・シンフィールド(元キング・クリムゾン)の
ソロ・アルバム『スティル』を手掛けた、
Sulamith Wulfingによるもの。


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『魅惑劇』というタイトルにふさわしい
ファンタジックなアルバム・カヴァー。
“野薔薇”という言葉をつい想起してしまう、
“ノヴェラ(NOVELA)”という、
ロゴも、言葉の響きも、片仮名の字面さえも麗しいグループ名。
広告に掲げられた、胸躍るキャッチコピーやアーティスト写真…。
「これが日本のグループか?」と思わせるほど、
そのすべてが14歳の心をときめかせるに充分な、
いや、完璧な登場の仕方でした。

生まれてはじめて欲しいと思った日本のロックのレコード。


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“これぞプログレ”といったジャケットやタイトルとは対照的に、
メンバーの姿は“プログレ=地味なルックス”
というイメージを根底から覆すものでした。
きらびやかな衣装にメーキャップ、そしてロンドンブーツ。
それはさながらグラム・ロックのようでした。

ところが、当時のロックの主流はまったく別のところにあり、
長髪、グラム、プログレはすべて“アウト”。

広告はもう残っていませんが、
使われていた写真はこれに近かったように記憶しています。
遅れてきたグラム・ロック?
はたまた早過ぎたヴィジュアル系?
1979~80年において、
このルックスへの風当たりは相当に強かったと思います。


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が、まだロックを聴きはじめて数年のボクには
なにも問題はありません。それどころか、
「プログレなのにグラマラス?素敵すぎる」
とさえ思っていました(笑)。

たしか82年の春頃(?)に、
岡山でコンサートの予定がありました。
それはあきらかに場違いとしか思えないイベントでしたが、
どうしてもノヴェラ(だけ)が観たくてチケットを買ったものの、
結局出演は中止に…。


ひっそりと聴いていた高校生活を終え、
大阪の学校に進学したボクは、
突如変化した周囲の状況に、随分と驚いたのでした。

というのも、岡山では
“知る人ぞ知るグループ”だと思っていたノヴェラが、
関西では絶大なる人気を誇っていたのです。
コピー・バンドの定番といえばディープ・パープル、
ではなく、ノヴェラだったのです。
(あくまでボク個人の印象ですが…)

また、当時、ノヴェラのメンバー写真やロゴ・ステッカーを、
全面にくまなく貼りめぐらしたジュラルミンケースを
度々目撃しました。その頻度たるや、
それらを縦に積んでみたならば、
軽くスカイツリーをも超えることでしょう。

「多田かおるの『愛してナイト』って知ってる?
あの『ビーハイヴ』のモデルがノヴェラやねん(ドヤ顔)」

高校時代にはまったく知らなかった情報が、
次から次へと入ってきました。

『JUNE』、『ALLAN』といった雑誌の存在に
うっかり気付いてしまったのもこの頃。

いっぽうで、ダークでマイナーな音世界に(も)
傾倒していったボクは、いつしか
“人気グループ”ノヴェラに対する興味が
次第に薄れていったのでした。

とはいえ、後にCDですべて買い揃えていることからも、
実のところ、興味が薄れていったのではなく、
“人気グループ”という認識(偏見?)から、
薄れたふりをしていたにすぎないのかもしれません。

ジャケットには前述のSulamith Wulfingをはじめ、
ミニ・アルバム『青の肖像』では漫画家の内田善美、
4thアルバム『SANCTUARY(聖域)』ではFrancois Gillet、
そして、ラスト・アルバム『THE WORDS』では
合田佐和子(「Heavy Roses」)と、
その徹底してナイーヴな美意識が、当時のボクを
ずっと刺激し続けてくれました。


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好きなものを、過剰なまでにとことん追求した結果うまれる
(人によってはそのただならぬ濃度にむせ返るほどの)
強い個性は、好き嫌いのハッキリわかれるところ。

「星降る夜のおとぎ話」「調べの森」といった曲名や、
ジャケットのイメージから、“お城系(笑)”と揶揄されたり、
また、ある評論家に“聴く以前に吐き気がする”とまで
言わしめたそのルックスは、
宝塚歌劇を引き合いに出されるほどでした。

そういった、(圧倒的に男性からの)
強烈な批判や熱烈な嫉妬にもめげず、
古典的で優美なロマンティシズムを、
ハードでドラマティックなサウンドへと昇華させた
ロマネスク・ロック・グループ、ノヴェラ。

ボクは彼等が切り開いた道を、
提示したスタイルや美意識を、
決して忘れることはないでしょう。





*
冒頭のミーティングから幾日か過ぎたある日。
ボクの目を釘付けにした名刺の持ち主が
仕事場に来てくださることになり、
1枚のCDを再生しながらお迎えしました。

「やっぱり!」。

そのCDは、ノヴェラの前身グループのひとつ、
シェラザードの音源であり、そのお方とは、
実にノヴェラのオリジナル・メンバー、
A氏だったのです。

A氏はグループの最高傑作『PARADISE LOST』を発表した
絶頂期のノヴェラを脱退後、
アクションのメンバーとなるも、
ほどなくして音楽業界を引退。

その後、何度かお会いする度に、仕事の話とは別に、
当時の(ノヴェラの)お話をたくさん聞かせていただきました。

驚いたのは、引退されてからは
あえて音楽にきっぱり距離を置いていたこと、
さらには自身の演奏が収録されたCDを、
一切お持ちでないことを知ったのです。
(当時はアナログ・レコードのみでした)
それを聞いたボクは、あろうことか、
手持ちの“聴き古した”CDを、たまらず差し上げてしまいました。
一ファンが当の本人に差し上げる、というのもヘンな話ですが…。

音楽に距離を置いていたことから推察するに、
もしもお会いするタイミングが前にずれていたならば、
ノヴェラの話も、CDの受け取りも
あるいは拒否されたかもしれません。


やがて仕事も終わり、
お会いする機会もなくなってしばらくしてのち、
とてもうれしいニュースが飛び込んできました。
20年も楽器に触れてさえいなかったというA氏がなんと、
ノヴェラの――後にアクションも――メンバーとして、
音楽活動を再開されたのです。


ほかにもうれしいことがありました。
それは、その後発売されたノヴェラのベスト盤
『オリジナル・メンバーズ』のクレジット・ページに、
自分の名前が掲載されたこと!(笑)。


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仕事をしたこともなければ、
A氏以外のメンバーの方々とは面識もなく、
この掲載は明らかにA氏の意向であることは明白。

仕事の上で自分の名前がクレジットされることに関しては、
もはや特別な感慨もなくなってしまいましたが、
これは10代の自分に教えてあげたいくらい、
素直にうれしかったです。

Aさん、ありがとうございました。



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*
My all-time favorites
#105

曲は、ノヴェラで「青の肖像/Requiem(part 2~3)」。






想像力喫茶室『バラ・グラフィック』にようこそ。


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