お正月2日目、
きょうは
”日本最古の神社”
大和(おおやまと)神社に 初詣に行ってきました。
「大和」神社って
すごく大きなお名前ですよね
ある意味「日本」神社と言ってるようなもの
じっさい、中心となる御祭神は
日本大國魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)。
大國魂といえば、
東京府中に鎮座される、武蔵の大國魂=大國主さんを思い出しますが
こちらは
日本(やまと)の大國魂なのです。
だからこそ
この神は宇宙戦艦・・・じゃない、
戦艦大和の守護神となられました。
大和神社の始まりを記紀的にいうと、
日本大國魂=大幡主の神は、もとは天照大神とともに瑞籬宮(みずがきのみや)の大殿(皇居)内に並斎されていました。
しかし両神の勢いを畏れ同じ殿内に居ることに不安を覚えた天皇は、豊鍬入姫に天照大神を、渟名城入姫に大国魂大神を託されました。
ところが渟名城入姫は髪が抜け、痩せ細って祀ることができなくなった・・・
そのあとも天照と大国魂の鎮座地は二転三転するのですが、
大國魂が最初に鎮座された場所は伝わっていません。
どころか、
大國魂は正体がよくわからない神様、
天皇が不安になるほど神威が強く
若い女性が近寄ったら髪が抜け、やせ細ってしまった・・・となっています。
(これをどう解釈するか)
百嶋神社考古学では
この日本大國魂は、じつは大幡主、博多総鎮守櫛田神社の主祭神であり
儺国王、
その息子が豊玉彦=八咫烏とされます。
博多櫛田神社の大幡主といってもまだピンとこないですよね。
わたしもそうでした。
お櫛田さんは三座、両脇はアマテラスとスサノオ
このふたりならよく知ってるけど、中央の大幡主って・・・と子どもの頃から、わが産土がよく知られてない神さまだったことにがっかりしていました。
しかし百嶋神社考古学は、大幡主がどこから来て(イスラエル→雲南)、どんなことをして、他の神々とどう関わっていたのか、生き生きと描き出しているのです。そこでの大幡主のプロフィールは、大きな幡を立てた船で海を渡る一族の長であり、奴国の王であり、息子のひとりが豊玉彦=八咫烏です。
大國魂(おおくにたま)、
息子の豊玉彦、
その娘の豊玉姫、玉依姫
「タマ」といえばこの人達ですね
また百嶋考古学では、ヘブライ系の列島流入は大きく1)5000年前と2)2300年前を説明されており、大幡主は2300年前のアレキサンダー大王遠征に伴ってペルシャの王族とともに東に逃げてきたユダヤ・イスラエル民族の一派とされます。この方々が、連合ヤマトの礎になられた。
宇宙戦艦ヤマトが遥かなるイスカンダルを目指すように
大幡主の旗艦は日本を目指したのです。
イスカンダルとは、アレキサンダー大王のペルシャ語読みです。
大戦のおり、大和(おおやまと)の主祭神、日本大國魂が戦艦大和の守護神となり、
戦艦大和の艦体を改造した「宇宙戦艦ヤマト」という漫画が生まれたのは、偶然にしても何のいわれもないことではなかったように思えてきます。
話が拡がったので、現在地・大和神社に戻りますと
その大幡主の最終的な安住の地が
儺(奴)國の博多ではなく
この神社の所在地、大和の新泉(にいずみ)だといいます。
シン・イズミ じゃなく ニイ・(イ)ズミ。
新山(にいやま)、新高山(にいたかやま)と同じ
新をnew のようにニイと読むこのセンスにまず注目。
「泉」という地名は、九州王朝の移動に伴って
佐賀県佐賀市久保泉町和泉→大阪市住之江区泉(あるいは和泉市)→奈良県天理市新泉町
・・・と移動した、といいます。
大幡主の系統は白(ペイ)族、
泉、白川、白水(しろうず)は大幡主系です。
白水郎とは、海人、漁師のこと
「白水」は中国の地名。その地の人で水にもぐって物をとるのが上手な者がいたところから。
天理駅のひとつ手前、櫟本駅からまっすぐ東にいくと、古墳にはさまれて白川ダム、白川グラウンドと白川溜池からきた「白川」が残っています。グーグルマップでみると、天理大学白川野球場のそばに正一位大明神という石碑があるのですが、正一位という最高の位をもつ大明神、これは大幡主=大國魂ではないかと思いました。
・・・ただ、天理市新泉町星山を鎮座地としたのは最近のことのようなので、
新泉という地こそ大幡主=大國魂のゆかりの地である、というのは、もう少し確認する必要があると思われます。
ところで、現在の大和神社の鎮座地である、天理市新泉町星山の星山(ほしやま)
星山という地名は全国にあって、どこもちょっと気になるところです。
1)岩手県紫波郡紫波町・・・宮城の志波彦・鹽竈神社の「志波」、福岡県朝倉市杷木「志波」との関連を思わせる地。北上川沿いに志賀理和気神社(赤石神社)がある。
2)静岡県富士宮市・・・富士川沿いの地。近くに明星山という地名、日蓮宗。日蓮宗の紋は大幡主系と同じ橘。
3)和歌山県伊都郡かつらぎ町
「星」もなんらかの符号であってもおかしくないと思われます。
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神社の場所は「天理」ですが、
最寄り駅は天理駅ではなく長柄(ながら)駅です。
付記 「ながら」は水枯れを示す、儺國由来の古語
越後阿賀川、美濃長良川の名のごとく、川の中洲に蟠踞する巨岩を”ながら”という。那珂の郡名はまさに石礫累々として水溢るる時は白浪天を溢す凄まじい光景があったことを教える。今の安徳岩戸の水田の下には、一面に川原石が並べてあり、これに赤土をたたいて水漏れをとめる百姓の仕事はなみたいていのものではなかったはずである。道善(どうぜん)に残る流(ながれ)、或いは安徳の仲(なか)などの字名はこれである。旱魃が打ち続く年は川床から水が姿を消す。”ながら”とは水枯れの古語であった。
真鍋大覚著 「儺の國の星 p62」
無人駅で
駅周辺もお正月だからか、人がいません
道迷っても尋ねられない・・・グーグルマップが頼りですな
このあたり 立派なお宅がいくつもあり
そして住吉神紋=三つ巴。
木瓜紋は高良神紋ですが、百嶋氏は「日本に来てから高良の木瓜の紋章を山幸彦(=饒速日)がもらってますね」とおっしゃっているそうなので、饒速日関係かもしれないし
宮原誠一氏のブログ「No.003 花菱・木瓜・五七桐の各紋について」にあるように、
「木瓜、剣木瓜、剣唐花(剣花菱)の紋は、神様をお守りした氏族の紋」であり、このあたりの方々というのは大幡主の後裔かその配下で九州王朝をお守りしていた一族だったのかもしれないですね・・・
大和神社に行く途中に
素戔嗚神社がありました。
小さいのに、立派です。
このあたりの地名は
天理市兵庫町。
あ、兵庫町牛頭(ごす)なんだ。
ここは、昭和17年から19年まで
大和神社が遷座していた場所だそうです。
太神宮というのは、どこのことなんでしょうか
※2024年1月2日追記
太神宮とは伊勢神宮(皇大神宮=内宮)のことでした。
奈良市の図書館で偶然目にした本が、「太神宮の高燈籠」マップで、これはお伊勢参りの道程に建立されたものだそうです。 江戸時代以降、伊勢神宮に村の安全を祈願した奉納物として、また、旅の道しるべや往来安全、村の守り神として建立されたといいます。
きれいに手が入れてあり
本殿には裏から回りこめないようになっていて
神社裏の鎮守の森もこんもりです
すごいブランコがあった!
非常に氣がよいところです。
ぶらぶらしてたら
大和神社の方向から、太鼓の音が聞えてきました
もういかなくては。
うおー 丸太を割って火にくべてました
写真を撮ろうとしたら、火にあたっていた人達、神社社家の法被のひとたち、そお~っと外され
火だけ撮れるようにしてくれました
わたしは 「みんなで焚火してまーす」でよかったんだけど・・・なんと奥ゆかしいひとたち
見回すと、参道はJR線とは反対方向から延びており、とても広いです。
あっちが昔の官道だったのでしょう
そしてお社。
どーんとしています さすが宇宙戦艦ヤマト
長柄駅からここに来るまで
さすがに大幡主を祀るといっても 大和神社 こんなに立派だとは想像がつきませんでした。
「雀のお宿」のように、すこーんと抜けた何もないところに忽然と現れた神域というか。
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由緒書きの一番最後に、
「天理教中山みき教祖生誕地は三味田町にある」と書かれています。
此の地が天理だから、という以外に一般には関係はしられていませんから
突飛な感じ、何か所縁があるのかなという印象を与える一文です。
百嶋神社考古学では
天理教の神さま、天理王は大幡主
となっています。
奈良の飛鳥、天神社でも、天理教の天御津(そらみつ)教会がキーな感じですが
ここにきてもまた天理教なのです。
天理教と、石上神宮や大和神社の関係はどうなってるのかな。
あっ 天御津(そらみつ)って虚空見日本(そらみつやまと)
そらみつは、やまとに掛かるんだよね
→大和神社
そしてこれ饒速日が言ったんだったね
→石上神宮
天御津(そらみつ)
天理教は なんか知ってて使ってる?
ここはもうちょっと掘れそうです。
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