私の嫌いなもの。


知ったかぶり。 


昔から学生などの若い人たちの間で、言葉自体は変わりつつも変わらず行われる身近な人への二極化の押し付け。

私はこれが大嫌いだった。


昔で言うところの「ネアカ(根明)」と「ネクラ(根暗)」、今で言うと、「陽キャ」と「陰キャ」といったもの。


いわばこれだって知ったかぶりだ。


自分にとって都合のいい部分だけを切り抜いて、相手を分かった気になる。本気で自分から見えている相手の姿が全てなのだと、盲目的に信じ込む。そして安心する。

これは何も、他人同士で起きることではない。身近な家族や友達同士にだって起きることだ。ただ、そのような場合は安心感はやがて「信頼」といった形に変わっていくのが、常だ思う。

では他人への知ったかぶりをしたときの安心感は何と呼ぶんだろう。


私は、その場合の安心感はどこかで隠したいと思っている自身の短所、弱点的なものをうまく隠し通せたことからくるものなのでは、と考えた。

そしてその弱点は、自身が知的好奇心がない、いわば、知らない物事への興味関心がないということ。


元々、知ったかぶりだって『私はこのことをちゃんと知ってるから!』『私は知識を持った人間だ!』という高くなりすぎたプライドからくるものだと思う。

それが他人の情報の知ったかぶりとなると、『私はなんとなく見ただけで、もうこの人がどんな人が理解したから、この人とは関わらなくていいんだ。』といった、自身が他人に気を許さずにずっと狭い世界の中で視野を狭めていくことへの肯定となっていく。

これは高慢だし、一種の怠惰だ。


しかし、こんな考えを本当は皆、無意識でしてしまっている。悪い癖のようなものなんだろう。

私も同じように無意識にそんな怠惰からくる、余計なバイアスを持ってしまっている。

「ネアカ」、「ネクラ」、「陽キャ」、「陰キャ」といった言葉を使う人たちをつまらない人たちだと決めつけている。『私のことを勝手に決めつけるな』と言いながらも、同じことを相手にしている。


もう、この癖は一種の現代病みたいなものなのかもしれない。