最近ふと疑問に思ったこと。
なぜ若い人は「イタい」、と言われるような人に呆れつつもその人の真似してしまうのか。何故、イタいのに真似をしていると『自分はイケてる、面白い』と錯覚するのか。。
そして一番の問題点はその笑いは自分だけのものであり、傍から見れば「ただのイタい人」となってしまうことだ。
ではどうしたらイタい言動を笑いに変えることができるんだろう?と、考えてみた。
そして気づいたことは「イタいことをしている自分」とは別に、「その言動を冷ややかに見ている自分」、いわゆるお笑いで言うところの「ツッコミ役」がいないと、この笑いは成立しないということ。
一つ例を挙げると、私が愛読している中尊寺ゆつこさんの漫画などがそうだ。
彼女の作品に、「おやじギャル」という、自身のオリジナル用語を当時流行語までにさせた漫画『スイート・スポット』がある。この作品の新しかった部分はなんといっても若いOLの女性たちがまるでおじさん、いわばオヤジのようにゴルフに打ち込み、居酒屋でビールを飲んで、お昼は立ち食いそばをかき込む…そんなオヤジのようなワイルドな行動、(悪く言うとガサツな行動)をしてのけてるということ。この様子が当時の凝り固まった社会の女性像をいい意味で打ち砕き、世の中の女性たちにパワーをくれた。。
だからこそ、「オヤジギャル」という言葉は流行語としてノミネートされたのだと私は解釈している。(間違っていたらすみません💦)
しかし、ここで大事なのは中尊寺さんは決して作中の彼女ら、「オヤジギャル」を全面的に肯定して描いているわけではないということ。(少なくとも私にはそう見える。)
作中の彼女らの行動は自由で、新しい時代への変化を表現しているが、しかしどこかコミカルでもある。
そう。この漫画は元々はコメディ漫画なのだ。そして、彼女らの行動はいわば今で言う「イタい行動」だ。そのイタさを中尊寺さんはコメディとして落とし込む。
つまり、中尊寺さんは彼女らの行動を否定はしないがそれに伴う「イタさ」も忠実に描いている。
「その言動を冷ややかに見ている自分」を中尊寺さんは持っているということだ。
彼女に限らずギャグ漫画家はみんなこの「もう一人の自分」を持っている。だからこそ、どんなボケも笑いに変えられる。
逆に、その「イタいボケ」を拾って完結させなければそれはただのイタい言動であり、何も面白くない。
これはギャグ漫画家に限らず、お笑い芸人、今だとYou Tuberなどもそうかも。
勿論、普段我々が人と会話していてジョークを言うときもそうだ。面白いと思った言動は、ツッコミを入れて「笑い」を完結させなければ。しかし、「イタいボケ」はツッコミ役は自分でなければいけない。『私はこの言動がイタいということを自覚してますからね。』という保険をかけて置かなければ、笑いには見えない。なのでそのためにも、この際のツッコミは痛烈なものでなければいけないのも、ポイント。生半可なツッコミだと本当に自身がその言動をイタいと自覚しているのか疑われてしまうからね。
P,S,
なぜこのことをブログに書いたのかと言えばこれは、いわば先述したようなイタいボケを笑いに消化出来ない「イタい人」である私への戒めだ。こうやって私も自分へのツッコミしていかないと、、
しかしこれじゃあ完全にお笑い評論家だなあ💦
素人が偉そうに書いてすみません…。