『日日是好日』(2018年)
樹木希林さんの遺作ということで話題になった映画。今更ですが観てみました。
TVドラマ向けの演技をしている役者さんと映画向けの演技をしている役者さんが混在しているバラバラ感が気になりましたけど、今回は映画の感想ではなくて思い出した記憶を書きたいと思います。
茶道は戦国時代に男性のものとして生まれましたが、近代以降は女性が美しい所作やおもてなしの心を学ぶものとして捉えられるようになりました。
映画では「ひとつひとつの意味は考えず、習うより慣れろ」と教えられていましたが、私は師匠が男性だったためか「所作の一つ一つに秘められた意味がある。それを知れ」と教わりました。
私が強烈に覚えている記憶があって、それは師匠と一緒に近所のお茶屋さんに行ったときのこと。
師匠がお茶屋さんに「この子が今お茶を習ってるんだよ」と紹介するとお茶屋のオヤジさんが「そいつは感心だ。どれ、俺が一杯点ててやろう」と咥えタバコのまま抹茶を点ててくれたことがありました。
女性なら「まあ、お下品ザマス」と眉を顰めるところなのかもしれませんが、若き日の私にはその姿が妙に格好良く見えたのです。
つまり、私が習ったお茶は「意味さえ分かっていれば形はわりとフリーダム」という、映画とは真逆のものだったのです。
ではその意味は何かというと、「宇宙と一体となること」。あるいは「小さな自分の中にも宇宙があると知ること」。
今にして思えば、その世界観は私の音楽に対する姿勢にも、人生観そのものにも大きな影響を与えていることに改めて思い至りました。
この映画でも逆の方法論を教えているようでいて、最終的には同じ目的地に辿り着くところが面白かったです。
久しぶりに岡倉天心の『茶の本』を読み直したくなりました。