新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が世界を脅かし、私たちの日常生活は数ヵ月前とまったく違うものとなってしまった。目に見えないウイルスに対する恐怖、外出が制限されるストレス、人に会えない孤独、行く末が見えない不安──。


私たちはいまだかつて経験したことのない事態を、どうやって乗り越えればいいのでしょうか。


他者との接触をできるだけ避けるために自主隔離生活をするのは、病気で入院するときに似ています。それまでとはまったく違う生活を送ることになるからです。


入院しても病院内を歩くことはできますが、病院の敷地外に出て行ったり、外泊したりするためには許可が必要です。しかし、それも重症であれば叶いません。普段元気な人であれば、自由に外出できないとなると強いストレスがかかることになります。

また自主隔離は、健康な人が自由に外出できないのとも違います。この期間がいつまで続くかわからなという不安もありますが、いわば「可能的に病者」であるといえるからです。つまり、今は健康だけれども、今後、感染し、重症化して死ぬかもしれないという不安があるということです。

「新型コロナウイルスに感染するかもしれない」という不安のなかで過ごさなければならないことが、ただ行動が制限される以上に困難を伴う理由です。

日ごとに感染者数が増しているというニュースに接すると、自分もまたいついつ感染するかわからないとか、すでに感染しているかもしれないという不安にとらわれます。自分だけは決して感染しないという根拠のない自信がある人もいるでしょうが、そんな人でも家族や同僚が感染していることがわかれば、不安は大きいものになります。

このような状況にあって、心配になるのは当然です。不安にならないために真実から目を背けることは得策ではありません。怖いからといって目を瞑っても、怖いものがなくなるわけではありません。不安から逃れようとすれば、かえって不安を増幅させることになります。

ですから、真実を知ることが必要なのです。それは、どんな病気についてもいえることです。自分の病状について真実を知ることは怖いですが、それを知らなければ適切に対処することはできません。

けれど必ず感染するとは限りませんし、感染しても重篤化するとは限りません。他方、若い人でも重篤化するということもことがわかってきましたから、決して楽観的な希望を持てないことも事実です。症状がなくてもすでに感染していて、他者に感染させているかもしれません。そうであれば、どんなに注意していても自分だけは絶対感染をしないということはありえないことになります。

*根拠のない希望はいらない
とはいえ、これから先どれくらい自主隔離生活が続くかわからないなかで、不安ばかり感じて生活していれば、疲弊してしまいます。


それでは「明けない夜はない」とか「夜明け前が一番暗い」と信じ、すぐに元の生活に戻れるという希望を持っていればいいのかといえば、そんなことはありません。


アウシュビッツの収容所では、1944年のクリスマスから1945年の新年のあいだに、いまだかつてなかったほど多くの人が亡くなりました。クリスマスには家に帰れるだろうという希望に身を任せた多くの人が、クリスマスが過ぎても帰れなかったために失望・落胆したのが、このことの原因だったとヴィクトール・E・フランクルはいっています(『夜と霧』)


ペストが猖獗(しょうけつ)をきわめた16世紀後半から17世紀にかけてのイギリスでは、「幸福な人間はペストにかからない」「心が幸福な状態であれば病気は避けられる」と信じられていました。


人は「ただ」病気になる。病気になることに「意志薄弱だったから」とか「神から罰せられたのだ」というふうに、余計な意味を付与してはいけないのです。



*なぜ謝るのか
病気になったときに、何らかの意味づけをすることがなぜ問題かといえば、ウイルスに感染した人が社会的な制裁を受けることになるからです。自己隔離生活においては、ただ行動が制限され、しかも感染するかもしれないという不安のなかで生きることだけが問題なのではなく、感染すれば社会的な制裁を受けるかもしれない、という不安があるのです。

どれほど用心しても防ぎようがないというのが本当です。ところが、外出してはいけないのに外出して感染したのだから、それは自己責任であると非難されます。さらに、それだけではすみません。

感染者と接触した人は自己隔離しなければならず、それによって大きな迷惑を及ぼすることになるので、ウイルスに感染した人は回復しても謝罪しなければならないことになります。誰もが好んで感染するのではないのですから、謝罪は絶対におかしいのです。

愛する人を亡くした人が、コロナウイルスが憎いと話しているのを聞いたことがあります。

病気は古来、悪の隠喩であり、医療者のみならず社会全体が病気と「闘う」という軍事的隠喩を用いてきました。病気を憎むことや、病気を制圧するべき「闘う」相手と見なすことは、やがて病気のみならず、病気の人にもスティグマ(汚名)を着せることになります。

ウイルスだけでなく、ウイルスに感染した人もスティグマを着せられると、感染した人は憎しみの対象になり、感染したことで責められることになります。さらに治癒したあとも、その人は謝罪しなければならなくなります。

けれど誰もが感染しうるのですから、謝罪することをやめなければなりません。


*これは「仮の生活」ではない
さて、以上にみてきたように不安は未来に関わることですが、「今」どう考えて生きていけばいいのでしょうか。

楽観的になったからといって、病気に感染することを防ぐことはできません。それでも、こうした状況のなかでどう生きるかは、決めることができます。


トゥキュディデスが古代ギリシアのアテナイを襲った疫病について詳細に書いています(『歴史』)。

健康だった人も何の前触れもなく病気に倒れ、アテナイの3分の1の人が亡くなったといわれています。自分自身も罹患したトゥキュディデスはこういっています。

「もっとも恐ろしいのは病気にかかったと知ったときの落胆だ」


人々はこの病気についていろいろなことを知っていたので、絶望し、病気に抵抗する気力を失ってしまったのです。絶望しないで希望を持ちさえすれば感染しないわけでも、また、治癒するわけではありません。また前述のように、根拠のない希望を持てば、それが実現しなかったときの絶望感が人を打ちのめしてしまいます。

しかし、どうにもならないと落胆して何もしないのではなく、できることをしていくしかないのです。

これから先、いつまでこれまでと違う生活をすることが必要なのか誰にもわからないのですから、初めからあまり力を入れすぎないことが大切です。今の状態が1ヵ月で終わると考えていれば、外出自粛が延長されたときにがっかりするでしょう。


1日も早くコロナ禍が終息してほしいと誰もが願っていますが、現在の生活はやがて前のような生活に戻るために耐え忍ばなければならない「仮のもの」ではありません。これだけが、与えられた「現実」なのです。



そもそも、元の生活に戻らなくてもいいのかもしれません。今回を機に新しい生き方を始めた人は、この事態が終息したあともその生活を続けていけばいいのです。



つまり、
「本来あるべき生活をする機会を与えられた」
ということなので、また元の人生に戻ってしまえば意味がないといわなければなりません。

そう考えると、2つのことに気づきます。


まず、

人生は有限であるということです。

次に、

大切だと思っていたことのほとんどすべてが、重要ではないということです。


大切なことは「生きる」ことなのであり、それ以外のことはほとんど意味がないということに気が付きます。


今は、世界中の人が同時に病者の経験をしているといえます。はたして、何が生きていくにあたって大切なことなのか──それを考え直すきっかけを与えられたと、考えたいのです。