春、
むかしから、好きじゃない季節だった。






いい思い出も悪い思い出も、特にあるわけではない。
ただわたしが桜を見ると思い出すのは、爛漫の陽気に春仕様の格好で出かけて、冷え込んだ夜にガタガタ震えながら帰宅する惨めな帰途とか、サークルの新入生歓迎会で砂にまみれながら食べたおにぎりとか、安い酒に溺れながら、サークルの同期と夜から朝まで場所取りをしたこととか、あたたかくなってきた宵に浮かれて羽目を外した恋愛とか、そういうもの。
悪くはない、けど、ちょっと苦い思い出たちだ。






花がこれ見よがしに咲く。ホクホクした土が盛り上がっている。

生命の芽吹きをみるのは、なぜか自分の心にも栄養が行き渡るようで、だからひとは毎年、寒くても風が吹いても、花を見るんだろう。




春が好きじゃないのは、
春服が似合わないというのもある。
わたしはパーソナルカラー(その人の持って生まれた肌や髪や目の色のカラーのこと)がブルーベースで、骨格診断がウェーブよりのナチュラルという体系で、ピンクや黄色のパステルカラーやオフホワイトが似合わない肌の色なのだ。薄いオレンジの口紅やピンクのアイメイクをすると、下手な女装みたいになるし、春色のブラウスは肩幅が10倍広く見える。店頭に並ぶ浮かれた色の洋服は、見るだけで手に取ることはほとんどない。わたしは四季折々の黒と白とグレーをまとって生きていくよ。上等だ。






でも
春が好き、って、とっても可愛いことだと思う。
希望しかない。未来に桜が舞ってるようだ。



一方わたしは、よく後ろを振り返るし、仕舞ったアルバムを引っ張り出してきては、一人感傷的になったりしている。そういう性。未来は薄靄に隠されて、希望も絶望もあると思っている。座右の銘は「いつか死ぬ」だし。


だから、逆に春は憂鬱になる。浮かれたみんなが羨ましい。日差しが暖かい日は窓辺に座るくらいのことしか、春の楽しみ方を知らない。できれば家から出たくないし、砂の混じったおにぎりはゴメンだし、桜は見たいけど人混みは苦手だし。困り果ててるうちに、桜は散り、春が過ぎる。



だから、春の暖かい夜にはなぐさめられることもある。
寒くない夜に、何度か桜を見に歩いた。夜でも桜は香り、眠っていないように見えた。さむい、さむいと言わずに歩けるので、お気に入りのベンチで夜を眺めたりした。春には半月や上弦の月がよく似合う。朧月夜はさらなり。これも、感傷に浸ると言っていい。なんだ、わたしは浸ってばかりいる。







枕草子の春は1月や2月そこらだと思うけれど、あの辺が春という感覚は今はもうない。





春はあけぼの、と清少納言はいうけれど、
わたしは
春は宵、
かな。






摩吏紗