12月に入りました(写真が11月ですみません)



すっぴんでいると具合が悪そうにみられる。
高校生の頃は毎日すっぴんだったのに、大人とは不便だ。
化粧をするようになるから、すっぴんに物足りなさを感じるのは、おおよそ文明の発達のよう。

わたしは高校生のころは化粧っ気もなく、同級生がスカートを短くしてゆるゆるのニットを着ている中、長めのスカートにジャストサイズのセーターを着てネクタイをきっちり締め、
真っ黒の髪を短く切ってセットもせずに通学していた。
それでも、いい匂いだけはさせたくて、いっちょ前にクロエの香水だけは欠かさずつけて。
今思えば なんだか ちぐはぐなポリシーだ。いじらしい。必死なわたし、かわいい。
あのころのわたしは、まわりにどう見えていたのだろう?


まわりにどう見られているかは、わたしにとっては何よりも重要なことだった。カッコいいひと の 姿としては、自分のなかに確固とした、でも実体のない、イメージがあった。たとえば、西加奈子さんの『さくら』に出てくる美貴。もしくは一の彼女の矢島さん。『うみのふた』のかき氷屋さん。『痴人の愛』の奈緒美。

美しい見た目のなかに破天荒な魂が宿るのは、いつだって情緒的で美しい。あこがれる。
なぜならきっと、わたしにはそれがないからだ。
ただ美しいだけでもダメ。ただ破天荒でも、ダメ。
美しくて破天荒でなくては、ダメなの。



さくらの美貴はぶっ飛んでる。素顔でもはちきれそうに赤い唇、面倒くさそうなアーモンド形の目、すらりと長い脚。
普通の人間なら手塩にかけて手入れしてようやく手に入れるもの、もしくはそれでも 手に入れられないような ものを、美貴ははじめからもっている。
それでいて そこに頓着しない。どれほど周囲が美貴をもてはやそうと、美貴には最愛の1人しか見えていない。
小松奈々でも、能年玲奈でも、二階堂ふみでも橋本環奈でも補えない理想像を、美貴はわたしに植え付けたのだった。
絵がなく、人物の姿を読者の創造のなかに育てさせる、小説とはすばらしく、厄介なものだとおもう。具体的に目に見えて存在しないからこそ、如何様にでも崇め奉ることができる。神さまみたいだ。


いまでもわたしの理想のショートカット像は矢島さんの「若い鹿のように潔い襟足」(わたしは町娘のごとく襟足のリーチが下まであるので叶わない)だし、
高い鼻の下につく、さくらんぼのように赤くかたちのいい唇にあこがれる。西加奈子さんのせいだ。



ここのところまた箍を外したように本を読むようになった。西加奈子さんのはなしばかりしているのは、積読図書になっていた『サラバ!』を読み進めているから。にしても、さくらといいサラバといい、辻仁成江國香織の右岸と左岸といい、人の一生を追う物語がとてつもなく好き。
また、感想でも書きましょう。




サラバ!

まりさ