高校の世界史でアフリカ史を学んだとき、フランスの植民地だった西アフリカ、またそこから海を隔てた孤島のニューカレドニアでもフランス語を話しているという事実に、すごく衝撃を受けたのを覚えています。
ヨーロッパからも離れたアフリカという土地で、肌の色も元々の文化も全然違う人たちが同じ言語を話している、ということ。
アメリカと、遥か遠くの島国オーストラリアでも、同じ言葉を喋っていること。


日本からしたら、トリニダード・トバゴの公用語が日本語、みたいなものでしょう?






それって、すごい。





日本は大陸文化の吹き溜まり、中国、インド、ヨーロッパから、大陸を通って流れてきたいろんなものが船に乗って到着し、日本の島で止まって混ざりあってきたのだろうと思っています。



大学受験で英語を学んで、
大学の第二外国語でフランス語をすこし学んでから、フランス映画もよく見るようになりました。

フランス映画は、暗くて、適当で、たまに深くて、人間らしくて、好きなのです。




フランス映画の特徴で一番思うのは、登場人物が当たり前によく勉強しているということ。


宿題をしているシーンだとか、みんなが割と真面目に授業を受けているシーンをよくみる気がするのです。



邦画でよくありがちなのは、
登場人物は恋の真っ最中で授業中も上の空、先生に当てられてドキッと、しどろもどろ。。
サブキャラは秀才で当てられたらわざわざ黒板まで出て行ってススっと計算式を書いて、メガネをクイっとあげながら戻ってくるタイプか、授業中居眠りをしてても先生にもクラスメイトにも笑い飛ばされて終わる人気者タイプのどっちか。その描写は、学校の描写であって、勉強の描写ではない。
と、だいたい相場が決まっているのです。



ところが、私の大好きな「アデル、ブルーは熱い色」も、フランス文学を紐解く授業を、みんな真面目に聞いています。当てられたら自分なりの意見をハッキリと言います。いじめられ中のアデルがぼけっとしてて聞いてなかったシーンもあるけど、「すんません、なんか よくわかりません」と正直にいうアデルを茶化したり怒ったりする空気はどこにもなく、先生もそれを真摯に受け止めて「もうちょっと噛み砕いて解釈を続けよう」とばかりに、授業を続ける。全員が、学びに対して真剣に向き合っているのです。

まぁこの映画では、この授業内容が映画のストーリーのキーを握っていたからしっかりと描かれていたということもあるかもしれない。

だけど、たとえばフランソワオゾンの「17歳」も、売春している主人公でも宿題はしっかりやっているシーンがある。友達と図書館で宿題をやる。弟も、家に帰ったら宿題をやってる。勉強している描写だ。






邦画で勉強しているシーンといったら、デスノート劇場版で藤原竜也扮する夜神月がコンソメパンチのポテトチップスを左手で食べながら右手にペンを持って勉強している描写だ。これも、実際は両利きの夜神月が、コンソメパンチの袋の中でデスノートの切れ端に名前を書いて殺人をしていただけなので、勉強している描写が工作に使われただけだ。
ちなみにこの映画をみてからわたしはしばらくコンソメパンチを食べながら勉強するのにハマった(染まりやすい)。




ヨーロッパ圏の大学に留学した友達が、宿題の量がおかしい、おかしいと言っていて、数ヶ月後に「おかしいのは日本だった、普通に考えて宿題少なすぎる」と言っていたことを思い出しました。

家で勉強する、ということだったり、
勉強をする、ということにたいして、日本て前向きじゃないのかなぁと。もちろん全員とは言わないし、きっとそうは言っても半数くらいは勉強好きだと言うだろう(希望)。少なくともわたしは勉強好きだった。学んだことが自分の血となり肉となるのを、感じていたから。



文化の吹き溜まり日本と欧米の
「勉強」および「学び」への意識の違い






風土の違いなのかなぁ。。
和辻哲郎氏も、そこまでは書いてくれてなかったからなぁ。。
 


気になる!!!!





最近気になってること、でした。





まりさ