店にはうざい小蝿がいた。
顔の周りを音もなくふわふわ飛び交う。
実に目障りで、何度も手で叩き潰そうとするのだけれど、これがなかなかにすばしこくて、手に負えない。
日本酒を三杯飲み終え、次の酒をお願いしようと、ふと空になったグラスを覗くと、なんとグラスの底に例の小蝿が鎮座していた。
グラスの底にかすかに残った酒に酔ったのか、それとも精魂尽き果て落下したのがたまたま俺のグラスだったのか、その辺のところはわからない。
いずれにしても、俺が箸の先で、グラスの底に佇む奴をつまんでもピクリともしなかった。
彼の亡骸はティッシュに包んだ。
この店ではグラスは最初から最後まで同じものを使い続ける。
割りばしの交換は3000円取られる。
実際取られるわけではないが、割りばしを粗末に扱うな、という店からの警告だ。
箸を誤って床に落とすやいなや、周りの常連が、
「はい、3000円!」
とはやし立てる。
そういう時、俺は、
「大丈夫っす、マイ箸あるんで。」
と、袂からマイ箸を取り出したりするから、場をしらけさせる。
「いいですよ。新しいのだしますから、これ使ってください。」
と、マスターは新しい割りばしを手渡してくれる。
今、俺のグラスにも箸の先にもわずかかもしれないが、小蝿のエキスが付いている。
出来れば、どちらも交換してほしい、少なくとも洗わせて欲しいところだった。
しかし、そんなことでマスターの手を煩わせるのも考え物だった。
大体、小蝿のエキスがなんだというのだ。
タバコの灰以上に害はないだろう。
タバコの灰がグラスに入ったくらいに思えばいいじゃないか。
しかし、どうしても俺はそれに新たな酒が注がれるのに抵抗を覚えた。
結局のところこれで切り上げることにした。
クジラの刺身がまだ半分ほど残っていたのが心残りだったが。
「あれ、今日は早いじゃん?この後はマリコの部屋?」
俺の妻はマリコという。
それを知っている常連が、そう揶揄してきた。
おそらくに中島みゆきの悪女の歌詞にかけたのだろう。
要するに「この後は、家に帰るの?」という意味だ。
「ええ、まあ。」
とはぐらかしてしまったが、今思うと、あそこは、
「あの子もわりと、忙しいようで。」
と、返すべきだった。
映えねえぜ、俺。



