使われていない部屋の、使われていない丸テーブルの上には、布団圧縮袋に入った四つ折りに畳まれた毛布が置かれていた。
それに気が付いたのは、春先のまだ肌寒い夜のことだった。
そろそろ寝ようかと、寝室に行くと、ベッドの黄色い掛け布団に、覚えのない茶色のシミが見えた。
何かと顔を近づけて見たら、それは飼い猫のきょんの吐瀉物であった。
猫を飼っている人ならばわかると思うが、きょんに限らず、猫は、まるで人間が洟をかむように、当たり前のように、気の向くままに、至るところで嘔吐する。
「ココッ、ココッ、ココッ・・・」
という声が聞こえてきたら、嘔吐の合図である。
それが聞こえるや否や、我々、つまり妻と俺は、要らない雑誌やら、空き箱などを手に取り、彼女が吐く前に、吐瀉物が着地するであろう場所を予想し、そこにそれを置く。
予見が当たるときもあれば、思わず方向転換され、予想外のところに着地させられてしまうこともある。
なにより、到着する前にすでに吐かれ終えられているということが、ほとんどだ。
そんな時、我々はトイレットペーパーをぐるぐる巻きにし、それを拭う。
トイレットペーパー越しにぬるっとした粘液質と、生ぬるさが伝わってくる。
あまり気持ちのいいものではない。
吐いた本人はといえば、離れたところでけろっと、片足を挙げ、頭を下げて、自分の股のあたり嘗めまわしている。
目が合うと、「なにか?」といった表情を一瞬見せたのもつかの間、すぐに目をそらし今度は顔を後ろに持っていき腹のあたりを嘗め始める。
まあ、猫、アルアルだ。
吐瀉物はすっかり乾いていたから、ずっと前に、我々が知らないときに吐いていたのだろう。
猫の吐瀉物は、それの糞尿よりは臭わない。
そういった点では、気にせず、そのまま寝るというのも手ではあった。
しかし、見てしまった以上、それはどうにも抵抗があった。
「おーい、きょんがゲロしてるよぉ。」
まだ居間にいた妻にそう呼びかけると、妻は駆け足でやってきて、迷うことなく、「手段はこれしかないのよ!」といわんばかりに、それを洗濯機へ放り込んだ。
我が家の洗濯機は、結構な大型で、布団が丸ごと洗える。
それから、例の掛け布団は水洗い対応のものであった。
妻の取った行動は正しいものだったに違いないが、寒い夜掛け布団無しで寝るのは、辛い話であった。
「一晩くらい、ゲロ付き布団で我慢しないか?」
と言おうにも、もうすでに洗濯機には洗剤が入れられ、水道の蛇口も回された後であった。
さて、どうするか?
そんな折、妻が取り出してきたのが、布団圧縮袋にしまわれていた毛布だった。
圧縮を解除すると、それは二倍以上に膨らんだ。
しかし、洗濯中の掛け布団に比べると、面積が小さかった。
その晩、我々は、一枚のそれを、引っ張り合いながら寝ることとなった。
結局のところ、俺はヒートテックのTシャツと股引を二枚重ねに着て寝ることになった。
翌日には、掛け布団もすっかりきれいになり、毛布は不要となった。
毛布は折りたたまれ、再び、圧縮袋に入れられたのだが、それっきりだった。
袋に入れたは良いが、圧縮されることなく、それっきり、居間の隣の使われていない部屋の、使われていない丸テーブルの上に置かれ続けることになった。
圧縮してクローゼットにしまえばいいのに、と思いつつも、それはそれで、生活に支障があるわけではない。
結局、ずっと見て見ぬふりをし続けて、いつしか羽毛布団が暑く感じる初夏になってしまっていた。
「そろそろ、これ押し入れにしまわないか?」
俺はクローゼットを押し入れと呼んでしまう。
和訳すれば、それで正しいのだろうが、なんだか、日常会話でクローゼットをクローゼットと呼ぶことに恥じらいを感じてしまうのだ。
フローリングなんてのも同様だ。
「どんなお部屋がお好みですか?」
30年以上前だが、不動産屋で、当時の自分よりも一回りくらい年上の女店員にそう尋ねられ、
「出来れば板張りで。」
と答え、
「フローリングですね。」
と、訂正されたのが、昨日のことのように思い出される。
何が、言いたかったかって、若いころから、横文字を使うのに抵抗があった。
クローゼットに毛布をしまうことを提案された妻は、「そうさのう。」とつぶやくと、グウィーンを持ち出してきた。
ダイソンのハンディクリーナーを俺はグウィーンと呼ぶ。
妻はグウィーンのアタッチメントを外し、本体だけにすると、その先端の筒を、布団圧縮袋の吸引口に押し当てた。
それからグウィーンの引き金を引いた。
グウィーンというモーター音が鳴り響き、それとともに吸引筒を介して、布団圧縮袋の中の空気が、一気に吸引されて・・・行くはずだったが、いくら吸引しても圧縮袋はそのままだった。
グウィーンという音だけがむなしく響き続けていた。
「ちょっと、この掃除機壊れてるんじゃないの?」
そう言う妻から俺は、グウィーンを取り上げ、筒を自分の手の平にあて、引き金を引いてみたが、結構な圧で、俺の手の平の皮は引っ張られた。流石、吸引力の変わらないただ一つの掃除機だ。
「いやあ、壊れてないと思うけど。」
そんな俺の返事も聞き終えぬうちに、彼女は玄関脇の収納入れから、転がすタイプの大型ダイソンを持ちだしてきていた。
彼女は結構フットワークが軽い。
言い換えれば、考えることなく迷うことなく思い付いたらすぐ行動に移す。
しかし、大型ダイソンの吸引筒を押し当てても、圧縮袋が圧縮されることはなかった。
「これも、もう壊れたか。そろそろ、新しいの買いなおしていい?」
妻は俺を見上げそう言った。
「いや、全然壊れちゃいないだろう。」
そして、床の埃に筒の先端を当て、スイッチを入れた。
埃はきれいに吸い込まれていった。
俺は布団圧縮袋に問題があるのではないかと、それを手に取った。
どこかに穴でも開いているのかもしれない。
そして分かった。
布団圧縮袋の口がちゃんと閉じられていなかったのだ。
底抜けのバケツで水を汲もうとして、「汲めない、汲めない!」と苛立っていたようなものだ。
「これじゃ、圧縮されるわけないよ。ほんと、まりくんはアタシンチなんだから。」
そういって、けらけら笑う俺に、
「自分でやれ!」
そう言い残すと、すべてを放り投げ、どすどす地響きをたて、彼女は寝室へと去っていった。
知らない人のために追記しておくと、俺は妻をまりくんと呼ぶ。
それから、アタシンチはうちでしか通じない言葉で、おばかさんとか、おまぬけさん、という意味である。
そういったタイトルの漫画があるが、たぶん無関係だし、あったとしても悪意はない。
圧縮袋の口を完璧に閉じて、グウィーンをあてて吸引すると、みるみるそれは圧縮されて、硬くなっていった。
ちなみに大型の威力は違うのかな?と、途中で機種を変更してみたが、効果に左程の違いは感じられなかった。
いずれにしても、毛布は圧縮され、クローゼットへと仕舞われた。
今日の朝の出来事だ。
おかげで、家を出るのがいつもより遅くなった。
「そんなこんながあったわけですが、やはり遅刻届は提出しなきゃいけませんかのう?」
遅刻届の提出は半休消化に値する。
恐る恐る尋ねた俺に、遠山景織子似の秘書はにっこり微笑み頷いた。
「駄目ですよ。」