オーナーとの間に何があったのかはわからないのだが、次に訪れたときにはSシェフはもう店にはいなかった。
寡黙に淡々と料理をこなすシェフで、おしゃべり好きなオーナーとは対照的に口数は少なかった。
料理を褒めてもただニコニコと微笑むだけ、自分を語るようなことはしなかった。
がっちりとした体格で、どういう鍛え方をしているのか、年中、それこそ冬の寒い日でもTシャツにハーフパンツだった。
ヴァンナチュールワインの美味しいお店だったが、俺はSシェフが作ってくれる料理も好きだった。
彼の作るマスカルポーネが好きで、帰り際よくお土産に追加購入していったものだ。
ある時、持ち帰ったマスカルポーネの入った容器の蓋を開けたら、いつもの二倍以上の量が入っていた。
その時はただサービスしてくれただけなのだと思っていたが、それがSシェフとあの店で会う最後となった。
後からオーナーから聞いて知ったが、その時既にSシェフが店を辞めることは決定していたのだという。
何も言わずに去って行ってしまった彼だが、今思えば、あのマスカルポーネは、彼なりのお別れの挨拶だったのかもしれない。
トマトを使わない白いトリッパ煮込みが、Sシェフの得意料理の一つで、俺はそれも好きだった。
しかし、Sシェフがいなくなるのと時を同じくして、その料理もメニューから消えた。
代わりに、新たに入った若いシェフが作る、トマトベースのトリッパ煮込みが用意されていた。
それはそれで美味しかったが、新たなシェフには悪いが、どうもそれは俺には代替には及ばなかった。
どうやら、あの白いトリッパ煮込みは、Sシェフにしか作れないものらしかった。
だからといって、オーナーに、
「Sシェフ、今どこにいるの?」
とは、尋ねられなかった。
何かで仲たがいしたという可能性も無きにしも非ずに思えたから。
もう、あのマスカルポーネも、トリッパ煮込みも、食べることはできないのか・・・と寂しく思っていたところに、妻が意外な情報を見つけてきた。
インターネットのグルメサイトで偶然彼を発見したという。
それによれば、彼はナカメのイタリアンのお店でシェフをしていた。
俺は早速、インターネットで席を予約した。
当日、店を伺うと、店のオーナーなのか、店長なのか、若い男性が、やってきて、予約の有無と、名前を訊かれた。
それを注げると、我々(妻と俺)は、店の奥のカウンター席へと案内された。
カウンターの向こうは厨房で、そしてそこに懐かしい顔が見えた。
久しぶりに会ったSシェフは、相変わらず、Tシャツにハーフパンツ姿だった。
予約の名前が我々だとは知らなかったらしく、驚いた顔をされた。
「見つけたわよ!」
と笑う妻に、何も語らず、ただニコニコとした笑顔だけを返した。
ヴァンナチュールの揃えはなかったが、ヒトミワインが置かれていた。
何よりうれしかったのは、あのマスカルポーネも、白いトリッパ煮込みも、両方メニューに存在した事だった。
もう二度と味わえないと思っていただけに、久しぶりにそれらを味わえて嬉しかった。
本当に満足できた。
だから、帰り際、見送りに外まで出てきてくれたSシェフに、妻がギューッと抱きついていたことは、見なかったことにしようと思う。