と云う本を
出されたのだそうです。
87歳だそうで
絵描きさん、小説家さん、ピアニスト
やはり指を使うお仕事の方々は長寿ですね。
手は外に出た脳と申します。
見事に合致です。
余りにも私の思いと考えとが横尾氏と似てるので
この場で共有したくなりました。
横尾氏は芸術家ですから
人様に遠慮せず
自分は自分だという信念で生きておられてるなんて、
勝手に想像してましたら
違いましたね。
ジレンマをお持ちみたいです。
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よく日本人は「年相応に生きなさい」みたいなことを言いますよね。
自分は自分なのに、自分らしく生きるよりも年相応であるべきという社会のルールは僕には何だかわかりません。だから、それに従えと言われても、その意味がわからないから従いようがない。やっぱり、自分の生き方に従うしかしょうがないと思うわけです。それが、他の人からは自由に見えたりしているのかもしれません。
ものには境界線がありますね。たとえば、生と死の間の境界線もそうです。
僕は何でも境界線が好きなんです。だから、境界線とは白黒をはっきりさせた境目ですが、白と黒の間には灰色がありますね。
その灰色の部分が好きなわけです。
そうすると、生と死の間もまた、灰色になります。
灰色は白と黒を両方共有していて、その灰色をポッと超えると、
まったく違うところへ行くわけです。
どちらにも属して、どちらにも属さない。その曖昧さがいいんですね。
すなわち、中途半端な状態が一番好きなんです。
「年相応」という考え方には、この灰色の曖昧さが感じられません。
そうすると、生と死の間もまた、灰色になります。
灰色は白と黒を両方共有していて、
その灰色をポッと超えると、まったく違うところへ行くわけです。
どちらにも属して、どちらにも属さない。
その曖昧さがいいんですね。
すなわち、中途半端な状態が一番好きなんです。
「年相応」という考え方には、この灰色の曖昧さが感じられません。
曖昧さが好きなのは、楽だからです。
どちらかに決めつけてしまうと、生きづらくなるじゃないですか。
どっちでもいいというのが一番楽です
死後のことまで全部いろいろと決めて、それで逝くってしんどい。(ホント!)
死んでからもまだ、現世を自分の好みで支配するなんて執着以外の何物でもないでしょ。
だから、僕は自分の葬式はまったく考えたこともありません。
要するに我々は、
何で生まれてきたかというと、遊ぶために生まれてきたんです。仕事をするために生まれてきたんじゃないんです。
三島由紀夫さんが市ヶ谷の自衛隊のバルコニーに隊員を集めて、まるで演劇のような空間を設定しました。僕には究極の遊びに思えました。
人生をドラマに仕立てた演劇的遊びです。
三島さんの個人的な生活の中で、僕はいつも三島さんの一挙手一投足に遊びの精神を見てきました。
だから、あの人騒がせな演劇的なパフォーマンスも遊びに見えたのです。
死さえ遊びにすることで死を超克したのではないでしょうか。
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私も三島由紀夫氏の自衛隊での最後は
死ぬことをも
芸術で終わらせるという事実だと思ってきました。
勿体ない事だと思ってましたし、今でもです。
残念です
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