パンドラのおもちゃ匣

パンドラのおもちゃ匣

声劇台本などを適当に置いておく場所です。
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『 八月の星 』



いくら陽の長い八月とは言え、今はもうすっかり日が暮れている。空には満天の星。少し風があるため耐えられない暑さではないが、それでもじっとりと汗がにじんでくる。私は彼が去った後の公園のベンチで、一人何を考えるともなく座っていた。
 ふと時計を見ると十時になるところだった。彼が去ってからもう一時間以上も此処にいる事になる。立ち上がるのさえ億劫だったが、明日も朝から仕事だ。いつまでも此処にいるわけにもいかない。私は一度大きく腿の部分を叩くと、その反動で立ち上がった。

「あのさ、さち。俺、好きな子が出来たんだ。」
 今でもはっきり覚えている。彼がそう言ったのは中学三年の事だった。
私と彼、悟は中学からの友達だった。私と悟は会ってすぐ気が合った。悟は私を女として見ていなかったし、私も悟を男として見ていなかった。クラスの男子が私たちの事を冷やかしても、私も悟も相手にしなかった。その頃の私たちは友達であり、仲間だった。そう、くだらない色恋沙汰なんかに惑わされず、いつまでも変わらないでいようと誓い合った仲間…。
 でもその誓いは、悟のその一言によって破られた。…いや、実際には彼は約束を破った訳じゃない。なぜなら、私たちの関係は変わらなかったから。その前もその後も、友達のまま…。でも私はとても裏切られた気がした。男だとか女だとかそういう事じゃなく、私にとって一番大切な相手が悟であり、 悟にとっても私が一番大切な相手だと信じていたから。でも、悟にとって私は一番じゃなかった。その事実は、私にとってとても大きな衝撃だった。そして、その時私は知ってしまった。私が悟に抱いていた感情を…。
 それからも私と悟は、高校・大学と同じ時間を過ごした。彼に気づかれないように、私が彼と同じ進路を選んだのだ。その間に悟は何人かの女の子とつき合った。私も五人とつき合い、時には悟とその彼女の四人でデートをしたりもした。たぶん私は怖かったのだと思う。悟だけが恋を知り、経験し、一人先に行ってしまうのが。私一人取り残されるのが…。
「さち~、頼む、理恵の機嫌直してくんねぇかな?」
「なに、また喧嘩したの?」
 悟は彼女と何かある度に私を頼ってきた。そんな時、私はいつも嬉しいような悲しいような複雑な気持ちになった。気心の知れた、信頼出来る仲間。それが悟にとっての私だった。そして私も、それを演じる事にどんどん慣れていった。
「あいつ、俺とさちのこと疑ってんだよ。」
「はあ?何それ。」
「だろ?意味分かんねぇよ。そんなわけないっつーのに。」
「違う。あんたの事言ってんの。そんなのわたしが言ったって逆効果じゃん。」
「いや、だから、さちから直接何でもないって言って欲しいんだよ。」
「えー。」
「何?」
「何か修羅場みたいで嫌だな。」
「マジ、頼むって。」
「んー。」
「ほんと、この通り。」
「…ったく、しょうがないなぁ。この埋め合わせはしてもらうからね。」
「悪りぃ。ほんとサンキューな。」
  何度かこういう場面もあった。悟に彼女がいる事を知らない人は、私の事を彼女だと勘違いしない方がおかしいくらい、私たちはいつも一緒にいた。夜を除けば私が一番彼と接している時間が長かったんじゃないかと思う。だから悟の彼女が、私との関係を疑ったとしてもしょうがない。でも、悟の彼女に「私たちは単なる友達です。」と力説しなければならない時、私はほんとに惨めな気持ちになった。その後私は、いつも二・三日家から出られなくなった。
「どうした?調子悪いのか?」
 電話口から漏れる悟の声には、本当に心配している響きがあった。
「あのね、今回が初めてじゃないんだから…。ああいう事があった後は、悟に会うの自粛しないとまずいでしょ。だから、こうして家でのんびりしてんの。」
「うん。まあ、そうなんだけど…。ほら、一応な。」
彼の優しさが心に響く。
「ったく、私は元気だから、悟は彼女との仲を心配してなって。」
「うん…。だけどなー、さちがいないとなんかな。物足りないって言うか…。」
 私はなんて馬鹿なんだろうと思う。たったこれだけの事でこんなにも幸せな気持ちになる。彼が私の事を心配してくれる、私の事を必要としてくれる。彼には彼女がいて、私はただの友達だという現実は何も変わらないのに。
「あ、そうそう。休んでる間のノート取ってるから、コピーしといてやるよ。」
「ありがと。」
「…あのさ、俺が言うのも何だけど、早く出てこいよ。」
「うん…。」
「じゃあな。」
「うん。」
彼が電話を切った後も、私は携帯を離せなかった。

  やがて私たちは大学を卒業し社会人になった。彼は大手の広告会社に運良く就職が決まり、学生時代に住んでいた安アパートから、中野駅近くのマンションに 引っ越した。私はと言えば、小さな出版社に就職し、家を出て目白で一人暮らしを始めた。初めのうちはちょくちょく連絡を取り合い、二人で飲みに行ったりもしていたが、お互い仕事が忙しくなってくると自然にそれも減っていった。そうして三年が過ぎた頃、彼から久しぶりに電話がかかってきた。
「もしもし、さちか?久しぶり。」
「悟?久しぶりー。元気にしてた?」
「うん。まあ、ぼちぼちな。」
「ごめんね。色々忙しくて、全然連絡取れなくて。」
「いや、こっちも忙しかったし。」
「何?久しぶりに飲みに行く?全然大丈夫だよ。」
久しぶりの悟の声に、無意識に声が弾んでしまっているのが自分でもわかる。いつもより声のトーンが二つも三つも上だ。落ち着けと自分に何度も言い聞かせ、悟に気づかれないようにしなきゃと思った時、
「悪りぃ、さち。」
「え?何?」
「俺、今日はちょっと…。」
「…ああ、何か用事があるんだ?」
今度は落胆を隠せない。
「うん…。まあ、用事って訳じゃないんだけど。」
「何?」
「うん…。俺さ、…結婚するんだ。」
 心臓を握りつぶされるような一言だった。死を宣告された囚人も、こんな感じなのだろうか。私は息をするのも忘れてその場に立ちつくした。
「…さち?おい、聞いてるか?」
「へ?」
私はとても間抜けな声で返事をしてしまった。
「…どうした?」
「びっくりした…。」
「そんなにびっくりする事か?」
「うん。まさか、悟が結婚出来るとは思ってなかったから。」
「なんだよそれ。どういう意味だよ。」
「まあまあ、…良かったじゃん。」
声が震えそうになる。
「うん。それでな、さちにも結婚式に出てもらいたくて電話したんだ。」
 なんて残酷な事を言うんだろうと思った。好きな男が自分をおいて他の女と幸せになろうという現場に立ち会えなんて。でも、仕方なかった。悟に罪はない。彼は私の気持ちを知らないのだから…。
「そうなんだ。…分かった。で、いつなの?」
「11月18日の第三日曜日。」
「四ヶ月後か。それなら全然大丈夫。」
「良かった。俺、さちには絶対結婚式来てもらいたかったからさ。」
「……。」
「ところで、そっちの方はどうなんだ?」
「何が?」
「そういう話は無いのかって事。」
「わたしはまだまだ独身生活を楽しみたいからね。」
「そんな事言ってると、すぐおばさんになっちまうぞ。」
「そっちこそ、もっと遊んどけば良かったって後悔しないようにね。」
「うるせーな。そんな事ねーよ。」
「…悟。」
「ん?」
「おめでと。」
「ああ、ありがとな…。招待状送るから。確か目白だったよな?」
「うん。」
「何か、電話で悪かったな。ほんとは会って伝えたかったんだけど。」
「ううん。色々と準備とか大変なんでしょ?」
「まあ、ちょっとな…。じゃあ、11月に会えるの楽しみにしてっから。」
「うん、じゃあね。」
 電話を切った後、私はその場に崩れ落ちた。身体のどこにも力が入らない。電話の向こうの彼に気づかれまいと張っていた虚勢も今は完全に消え去り、私は放心状態のままその場に座り続けた。ただ涙だけが壊れた蛇口のように止めどなく溢れてくる。
「何故私は悟に気持ちを伝えなかったのだろう。」後悔だけが頭の中を埋め尽くす。「彼に気持ちを伝えていれば、違った結果になったかもしれない。」でも、私にはそれが出来なかった。彼のそばにいて、いつか彼が私を見てくれる日が来ないかと待っている事しかできなかった。
「嫌だよぉ…。ねえ…、嫌だよぉ…。」
その日私は一晩中泣いた。私には泣く事しかできなかった。彼の事を思っては泣き、自分の勇気の無さを後悔しては泣いた。外が明るくなってきても、涙が止まる事はなかった。その日私は無断欠勤した。次の日もその次の日も、私は会社を休んだ。そして4日目の午後、私は会社に退職届を出した。

 彼の結婚式はそれは盛大に行われた。招待客は百人を優に超え、高校の時の知り合いも何人もいた。彼の結婚相手は会社の専務の娘という事らしく、これで彼は確実に出世コースに乗った形となった。でも彼はそのために結婚したんじゃない。それはその日の彼の幸せそうな顔を見ればすぐに分かった。だらしなくゆるんだ頬。馬鹿みたいにハイテンションな挨拶。結婚式の主役は花嫁ではなく悟だった。
 披露宴の途中、花嫁がお色直しで出て行った後、私は一人悟にお酌をしに行った。同僚に並々とビールをつがれ慌てて飲んでいた悟は、私に気づくと驚きのあまり声を失ったようだった。
「……さち、お前…。どうしたんだ…。」
その時私の体重は40㎏近くまで落ちていた。以前の私を知っている悟には当然の反応だろう。二人の間の緊張した空気を読んでか、周りにいた彼の同僚達は他のテーブルへと移動してくれた。
「うん、ちょっとね。今の彼が細い方が好きだって言ったから。」
「それにしても限度があるだろ。」
「悟はあんまり細いのは好みじゃなかったもんね。」
「そういう問題じゃなくて…。」
「大丈夫。病気とかじゃないから。ほんとに心配しないで。」
「……。」
「あと、ごめんね、招待状。悟に連絡もらった後すぐ、ちょっとした問題が起きちゃってあそこ出ちゃったもんだから。」
「いや、それはいいんだ。返事は聞いてたし。」
「連絡しなきゃと思ってたんだけど、色々ゴタゴタしてて。」
「今は実家に住んでんのか?」
「ううん。今は彼のとこに居候させてもらってる。」
「…そっか。」
「うん。」
「今日、二次会は来れるんだろ?」
「…ごめん。」
「何か用事があるのか?」
「そうじゃないけど、今の彼が嫉妬深くて二次会には出るなって。」
「……。」
「ごめんね。」
「いや。…じゃあ、何か悪かったな。」
「ううん。結婚式だけはどうしても出たかったから。一生に一度の晴れ舞台だもん。見逃す訳にはいかないでしょ。」
「ありがと…。」
「じゃあ、今日はほんとにおめでと。」
 … 嘘ばかりだった。彼氏なんていなかった。私は出版社を辞めた後、新宿のデパートで働いていた。目白から西武線の新井薬師前へと一人引っ越したのは、彼の住 む中野駅からも帰れるからだった。時々中野駅を利用しては、「悟に会えるかもしれない。」そんなたわいもない想像をするだけで、私の胸は早鐘のように鳴った。でもそれは、決して現実になる事はなかった。
 結婚式も出席するかどうか、ぎりぎりまで悩んでいた。「悟の前で私はちゃんと笑顔でいられるだろうか?」彼にみっともない姿を晒す位なら、いっそ欠席したかった。しかしその時、彼はなんて思うだろう。どうしたんだと心配してくれるだろうか?たとえ友達としてでも、彼とのつながりがある事が、今の私のたった一つの生きる力だった。それさえも無くなった時、私はこの世から消えてしまうような気がした。
  しかし私が側に行くまで、悟は私の変化に気づいてなかったのだ。仕方ない事だとも思う。会社の関係者など、今現在彼と近しい人たちが、常に彼を取り巻いて いるのだ。彼にとって私は特別じゃないんだと思い知らされた。会いたいと強く願っていたのは、自分の方だけだったのだと。私は一分一秒でも早くここからいなくなりたかった。私の精一杯の強がりが、この作り笑顔が限界に達しないうちに…。

 それからまた約三年の月日が経った。結果として結婚式に出席した事は、彼の事に踏ん切りを付けるいい機会になった。一年ほどで私は体重を取り戻し、休みがちだった仕事も順調にこなせるようになった。悟とも、頻繁ではないけれど以前のように連絡を取り合えるようになった。完全にただの友達だという思いが、以前より電話を掛け易くさせたのだ。私たちはまるで 学生時代に戻ったかのようだった。悟が私を頼り、私が悟にアドバイスをする。それはとても心地よい関係だった。悟が結婚する事によって、こんな関係が再び築けると思っていなかった私は、この状況が夢のようだった。
「結婚なんてするんじゃなかったかな。」
それが彼の口癖だった。結婚式ではあんなに幸せそうだった彼も、重役である義理の父と奥さんからの期待で、毎日がストレスの連続らしいのだ。端から見れば、綺麗な奥さんをもらい出世街道に乗った悟は幸せいっぱいのはずである。しかし、彼には彼なりの悩みがやはりあるのだ。そして最後にいつも「さちの方はどうなんだ?」と聞いた。
  私には今23歳になる彼氏がいた。私より五つも年下で、同じデパートの紳士服売り場で働いていた。ある日休憩室の屋上に出ていた私に突然告白してきたのだ、「つき合って下さい。」と。私は一瞬何を言われているのか理解出来なかった。全く話もした事のない、しかも明らかに自分より年下の男につき合って欲しいと言われるなど、想像もした事がなかったからだ。彼は叱られた仔犬の様な目で私を見つめ、「駄目ですか?」と小さく聞いた。こんなにも真っ直ぐに気持ちをぶつけられたのは高校生以来だろうか。その体当たりな方法に好感を覚えた私は、その場でオーケーしてしまった。
「さち、今日も泊まってっていい?」
 ベッドに座りテレビを見ていた浩一が甘えるように言った。
悟以外で『さち』と呼ぶのを許したのは、彼、浩一が初めてだった。今までの彼氏には色んな理由を付けて、『幸子』と略さず呼ばせていた。「『さち』と呼んでいいのは悟だけ。」そんな思いが彼らにそれを許さなかった。
「いいけど、わたし明日早番だよ。浩一、確か遅番でしょ。先に出ちゃうけど…。」
「大丈夫。一緒に出てどこかで時間つぶすから。」
「え?だって二時間以上もあるよ。」
「でも、今日中に帰るとなると、その何倍もさちと離れてなきゃいけないじゃん。」
浩一は自然にこういう事が言えた。初めのうちは、こう見えてプレイボーイなのかとも思ったが、どうやら三男という環境が自然に甘えられる性格を創ったよう だった。彼に甘えられるのは嫌いじゃなかった。その中には必ず相手を喜ばせる要素が入っていたからだ。私は時々、彼の性格をうらやましく思った。
「浩一がいいなら、わたしはいいけど…。」
「よし。」
そう言いながら、彼は私の腰に腕をまわす。あからさまに下心丸見えの行動なのに、何故か憎めない。
「待って。お風呂入れてくる。」
「は~い。」
「一緒に入る?」
「うん。」
誰かとつき合って癒されたのは、これが始めてだった。今までは、誰とつき合っていても悟の事を意識していた。「悟だったらこんな事はしない、悟だったらこんな事は言わない。」と、どこかで比べながら相手を見ていた。そして、最後には耐えられなくなってしまうのだ。
しかし、浩一は違った。悟との違いを意識しても、そこに不快感を感じさせなかった。悟以外の男に触れられる時、私はいつも不快感しか感じなかったのに、彼からは安心感を覚えた。それは私にとってとても新鮮な驚きだった。
 しかし、だからといって悟の事を忘れられたかと言うとそうじゃ無かった。私にとって一番はやはり悟だった。悟から会えないかと連絡が入れば、先に浩一との約束が入っていても、私は悟と会った。浩一には申し訳ないと思っても、悟に会える嬉しさを押さえる事は出来なかった。
 ある日仕事中、携帯に着信が入った。「ごめん。」と同僚に手で電話のことを伝え、裏に駆け込む。こんな時間に私に電話をかけてくるのは悟しかなかった。急いでディスプレイを確認すると、やはり彼からだった。私はすぐにかけ直す。
「ごめん、仕事中に。」
 彼の声はいつもと同じ風を装っていた。しかし私にはすぐに何かがあったのだと分かった。とても弱っているように感じたのだ。
「…大丈夫?」
会話になっていないと思いながらも、わたしはそう答えた。
「…やっぱ、すげぇなさちは。何でも分かっちまうのな。」
「当たり前じゃない、悟の事だもん。」思わず口に出そうになるのを止める。
「七時にいつものお店で良い?」
「サンキュ…。」
「何、友達でしょ?」
「友達か…。」
その一言は、私をどきりとさせた。いつもの悟じゃない。何か予感のようなものが胸の動機を高まらせた。
「じゃあ、七時に。」
「うん…。」
電話を切った後も、胸のどきどきは治まらなかった。

  彼と待ち合わせた店は、お互い就職して二人で何度か飲みに行っていた頃に見つけた、地下にある小綺麗なバーだった。その頃はまだ二人ともどこか背伸びをしているような感覚だったが、悟の結婚後久しぶりに来てみると、とても落ち着ける感じがした。それからその店は、私と悟の『密会の場』となった。
私は浩一に吐いた嘘に少しの罪悪感を感じながら、それでも殆ど悟の事で頭がいっぱいだった。昼間の彼の様子は、明らかにいつもと違っていた。ただ愚痴を聞いて欲しい時の彼は、私の声を聞いただけでその目的の半分を果たしたように声も軽くなった。「でも、今日は…。」私は半分ほど残っていたグラスを一気に空け、もやもやとした考えを振り払おうとした。
悟は七時を少し回った頃にやって来た。
「よう。」
いつものように笑顔で現れた彼は、 でもどこか悲しげに見えた。私も笑顔で彼を迎えたが、いつものようにこちらから話を聞こうとしなかった。ただ黙って彼が話し出すのを待った。彼はジントニックの入ったグラスを眺めながら、何から話そうか考えているようだった。そのまま会話もなく5分ほど経った頃、彼がゆっくりと口を開いた。
「子供が、…出来たんだ。」
それは私の予想を裏切る言葉だった。
「子供…?」
「…うん。」
私は彼の真意を測りかねた。子供が出来る事は、結婚している彼にとって嬉しい事のはずだった。実際彼は結婚式で「子供は多ければ多いほど良い。」と言っていた。子供好きなのも知っている。それなのに何故彼はこんなに暗い表情をしているのだろうと思った。どう答えて良いか分からなかった私は、ありきたりな言葉しか見つけられなかった。
「…そう。おめでとう…。」
「うん…。」
それからまた長い沈黙が続いた。彼が何を悩んでいるのか、私には依然として分からなかった。こんなにも暗く沈んだ悟は今まで見た事がなかった。と、突然彼は意外な事を口にした。
「さちは今幸せか?」
「え?何?」
「今の彼とは上手くいってんのか?」
今日の悟は全く分からなかった。彼がどんな答えを期待しているのか。「うん。」と言えば「それは良かった。」と笑顔で言ってくれるのか。否定すれば、「みんなそうだよな。」と彼への慰めになるのか。
「うーん、まあまあかな。」
私は曖昧に言った。
「そうか…。」
彼は一言そう言った後、ゆっくりと話し始めた。彼が任された新しい仕事が上手くいってない事。そしてそれが、奥さんの父親である専務から当てられた仕事だという事。その事で奥さんから毎日のように「成功させてくれないと困る。」と責められる事。勿論会社では、その専務からもプレッシャーをかけられている事。 もう会社を辞めてしまいたいが、そんな事は許されない事。
「もう何をどうすればいいかも分かんねぇ…。」
「……。」
私にも、彼に言ってあげられる言葉が見つからなかった。いつもだったら話を聞き終わり、「大丈夫。何とかなるよ。頑張れ。」と言えば、「他人事だと思って。」と言いながらも、それですっきりした顔になってくれた。しかし今日はそんな軽いものではなかった。話し終えた後、彼は辛い現状を再確認したように、余計に暗い面持ちになった。
「学生の時は良かったな…。」
ぽつりと彼が言った。
「悩み事なんて殆ど無くて。いつもさちが傍にいてくれて…。」
瞬間、私はどきっとした。そして徐々に鼓動が早くなってくる。
「俺、離婚しようかと思ってるんだ…。」
「え?」
「さちはどう思う?」
彼は真顔でそう聞いた。「どう思う。」とはどういう意味だろう。普通に考えれば離婚の事についてだと思う。しかし、今日の悟の意味深な言動を考えると、悟の事を私がどう思っているのかという意味に取れなくもない。いや、それはただの私の願望でしかないと自分に言い聞かせたが、その期待を捨て去る事が出来なかった。しかし、ふとその時、私は悟が今日最初に言った言葉を思い出した。
「…子供は、どうするの?」
再び長い沈黙が訪れた。私は彼が悩んでいた事がやっと分かった。それは、離婚しようか悩んでいた時、子供が出来た事だった。たぶん彼の気持ちは離婚の方に傾いていたのだと思う。だからこそ、子供が出来たという事実が彼を苦しめているのだろう。
「悪い。俺そろそろ…。」
しばらくして彼はそう言った。
「ただでさえ機嫌が悪い時にあまり遅いと、面倒な事になるから…。」
彼は力無く笑い、そして立ち上がった。去り際に彼は「また会えるか?」と聞いてきた。こんな事を聞くのは初めてだった。
「当たり前でしょ。」
私の返事を聞くと彼は安心したように「じゃあ、また。」と言って出て行った。けれど私は、なかなかそこから動く事が出来なかった。

  それから私たちは週に一回は会うようになった。しかしあの日以来、彼は会社や家庭での事は一切話さなくなった。私の方も敢えて聞こうとはしなかった。私たちは色んなところに遊びに行った。勿論夜の短い時間だけなので遠出は出来なかったが、それでも十分に楽しかった。その時間だけは、彼は私のものだった。彼とのたわいもない冗談でさえ、私はこれ以上ない幸せを感じる事が出来た。
 でも、悟との時間が楽しければ楽しいほど、浩一に対する罪悪感が私を苦しめた。彼には、女友達の相談という事にしていた。その事を彼が疑う事はなかった。
「明日もまた会うんだ?」
「うん…。」
「そっか…。」
寂しそうにする浩一を見て、私は胸が痛んだ。こんなにも彼は私の事を想ってくれているのに、また信じてくれているのに、私は嘘を吐いて他の男に会いに行くのだ。私は浩一を後ろからそっと抱きしめた。
「ごめんね。」
「ううん。しょうがないじゃん。それに、大変なのはさちの方だし。」
私は彼の顔を振り向かせ、そっと口づけをした。すると、ふいに涙がこみ上げてきてしまった。
「え?どうしたの?」
彼は困ったように私の顔をのぞき込む。彼の前で涙を見せるのはこれが初めてだった。彼は私の泣いている理由も分からずに、「ごめんね。」と何度も繰り返した。そして彼が謝るほど、私の涙は溢れてくるのだった。

次の日悟と別れた後、すぐに帰る気になれなかった私は、一人あの店へと向かった。
「今日、彼は一緒じゃないの?」
その日は珍しく響子さんの方から話しかけてきた。もちろん彼女の言う『彼』とは悟の事だ。
「さっきまで一緒だった。」
響子さんは「そう。」とだけ言い、再びグラスを磨く手を動かし始めた。一人で来るのは初めてじゃない。悟が結婚する前、なかなか会えない頃は悟の事を想って 一人で飲みに来た事が何度かあった。そんな時、私の話し相手になってくれたのはバーテンダーの響子さんだった。見た目は私といくつも変わらないのに、私よ り十歳も年上だという。いつも落ち着いた物腰で、決して感情を表に出すことなく、しかし優しく包んでくれる。そんな彼女に私はいつか憧れのようなものを抱いていた。
私はぼんやりと彼女の手の動きを眺めていた。彼女が磨いていたグラスを静かに棚に戻し新しいグラスを手に取った時、私はふと思った事を口にした。
「響子さんは結婚してるんですか?」
「してないわよ。」
「しないんですか?」
「そうね。する気もないしね。」
そう言った彼女は、ほんの一瞬寂しさのようなものを見せた。私が黙っていると、響子さんは「何かあったの?」と優しく声を掛けてくれた。私は少し迷ったものの、結局彼女に全てを話す事にした。話を聞き終えた後、響子さんは「ふぅん。」とため息のような声を出した。
「それで…、あなたはどうしたいの?」
「わたしは…、分からない…。悟の事は昔から好きだったし、今でもやっぱり一番好きだと思う。」
「なら…。」
「でも、浩一の事も、…好きなんだと思う。こんな事初めてでどうしていいか…。」
「そう…。」
「自分でも欲張りだと思う。このままじゃいけないとも思ってる…。でも、どうしたらいいか分からないんです。」
響子さんは持っていたグラスをじっと見つめた後、何かを思いきるように話し始めた。
「私にはね、兄がいるの。父の再婚相手の連れ子なんだけど。兄は私より一つ上で、当時中学二年だった。私は初め、兄がとても嫌いだった。と言うか、新しく来た母親も含め、他人がうちの中にいるのが嫌だったの。ちょうど難しい年頃だったのもあって、私は反発して結構ひどい事も言ったりしてた。でも、新しい義母は私に優しくしてくれた。いつも私を気遣い、自分の本当の子である兄よりも私の味方になってくれたわ。でも、それに対して兄は初めから私に敵意のようなも のを持っていたの。私はずっと、それが私と同じように他人と一緒に暮らす事への不満だと思ってた。私のうちに入らざるを得なかった兄が、自分のうちに住み 続けられる私を嫉妬しているんだろうって。…でもそうじゃなかったの。あの人は私の事が好きだったのよ。」
「あの人?」
その言い方に軽い疑問を覚えた私は、思わず聞き返してしまった。
「そう。私の兄はね、私の事が好きだったの。私たちはいつも喧嘩ばかりしてた。兄はいつもぶっきらぼうに「邪魔だ。」とか、「あっち行け。」だとか言って私を 遠ざけようとしてた。私は、「ここは自分のうちなんだから他人に指図される謂われはない。」と、いつも噛みついてたの。そして私が中学三年になったある日、私と兄はやはりちょっとした事で喧嘩になったの。いつも止めてくれる義母がいなかったせいで、その日はずいぶんエスカレートしちゃってね。それで、 「そんなに嫌なら出て行けばいいじゃない。」って言っちゃったの。それまで「これだけは言ってはいけない。」って幼心にも分かっていたのに…。でもね、それを聞いて兄は何て言ったと思う?」
「…?」
私の困惑顔を見て、響子さんは満足そうに続けた。
「「そんな事しても意味がないんだ よ。」って言ったの。私には意味が分からなかった。「そんなの無理だ。」なら分かるけど、「意味がない。」っていうのはどういう事なんだろうって。しかも その後、兄は頭を抱えるようにして泣き出したの。私はどうして良いか分からなかった。兄が泣いてるところなんて初めて見たから。そしたら兄は急に私を抱きしめて、そしてキスしてきたのよ。」
響子さんは素敵な思い出を懐かしむように笑った。その時、私は彼女がお兄さんのことを好きだったのを悟った。
「その時私は、頭の中が真っ白になっちゃた。喧嘩してたら訳の分からない事を言い、急に泣き出したかと思えば私にそんな事するんだもん。もう、何が何だか…。 私は兄を突き飛ばして自分の部屋に駆け込んだの。落ち着こうと思っても、「部屋まで入って来たらどうしよう。」って考えるだけで、心臓が破裂しそうだった。でも兄は来なかった。そんな事があった後も、兄の態度はそれまでと同じように、いえ、それまで以上に私を遠ざけるようになった。兄は完全に私を避けるようになったの。でも反対に私は兄の事がすごく気になるようになった。「あれは一体何だったんだろう、何であんな事をしたんだろう。」って。兄の事を考える時間が日に日に長くなっていった。私は兄に『男』を意識するようになっていたのね。私はそんな自分が嫌で、何度も自分の気持ちを否定しようとした。でも 無理だった。そしてもう一度抱きしめて欲しいと思ったの。私は初めて兄の部屋に入った。そして兄の目を見つめながら聞いたの、「私の事好き?」って。私も若かったのね、そんな事聞けるなんて。兄はうつむいて両手で顔を覆い隠してしまった、微かに肩を震わせて。私はまた兄が泣いてしまったかと思ったわ。だから私はその場に跪いて、兄の頭を抱きしめたの…。」
私は響子さんの話を黙って聞いていた。一番驚いたのは、響子さんとお兄さんが血の繋がった本当の兄妹だったという事実を聞かされた時だった。彼女のお父さんは、前の奥さんと結婚する前からお兄さんの母親とつき合っていたのだ。
「あの人は始めから全部知っていたのよ。だから私を遠ざけようとしてたの。」
そう話す彼女の顔には、深い悲しみが浮かんでいた。
「あの人は高校を卒業するとすぐ家を出て行った。それから二度とうちに帰ってこなかった。あの人の本当の母親である、義母が亡くなった時でさえ。あの人は、あの日の事を『過ち』としてずっと後悔してた。決して犯してはいけないタブーだって…。でも私は一度だって後悔した事はないわ。他人が何と言おうと、どんな目で見ようと構わない。あの人と一緒にいられれば、私はどんな事だって耐えられる。…でも、あの人はそうは思わなかった。あの人が出てってから今日まで約二十年、私たちは三回しか会ってないし、二回目に会った時、あの人には奥さんも子供もいるって聞かされたわ。」
「…それってひどくないですか?」
「何故?」
「だって結局逃げ出したんでしょ。しかも響子さんは今でもお兄さんの事を想っているのに、自分だけ結婚して家庭を持って…。」
「ううん。違うの。あの人は私のために出て行ったの、私のために結婚したのよ。私があの人の事を忘れて、普通の幸せを探せるようにって。全ての人に祝福して貰える、普通の幸せをね…。私にはそれが分かる。あの人は昔からそういう人だったから…。自分の気持ちより、私の幸せの事を考えてくれる。本当に一番苦しんでいるのは、あの人の方なのよ。」
私は自分の浅はかな考えを恥じた。彼女のお兄さんは、今でも響子さんの事が一番大切なんだと分かった。他の全てを偽性にしてでも、彼女の幸せだけを願っているのだ。
「まあでも、ひどい男っていうのは間違ってないかもね。奥さんをずっと騙してるんだから。」
私は何て答えて良いか分からなかった。
「って、長々と私の事を話しちゃったけど、つまり私が言いたのは、あなたと悟さん、または浩一君にとって一番良い関係は何かって事。私は兄の事が好きだった し、兄も私の事が好きだった。でも、私たちがもし『男と女の関係』を続けていたとしたら、兄はずっと自分を責め続けると思う。だから私は、あの人を苦しめ てしまうくらいなら、あの人の望む『兄妹』でいようって決めたの。お互いどんなに好きでも、それが私たちにとって一番良い関係だったのよ。何もかも自分の望むようには行かないかもしれない。なら、その中で自分にとってのベストな関係を探すしかないわ。『彼』なのか『友達』なのか、それとも『それ以外の何か』なのか…。」

 響子さんの話を聞いてから、私は悟との関係、そして浩一との関係について考え続けた。私にとって悟はどんな存在か。そして浩一は…。何かが見えてきそうだったが、それでもはっきりとした答えは見つからなかった。そうして一週間が経ち、私はまた悟と会っていた。
レストランで食事を終えた後これからどうするかと聞くと、彼は私のマンションに行ってみたいと言いだした。私は少し迷ったがそれを承諾した。
「ちょっと歩かないか?」
高田馬場駅で乗り換えようとした時彼は言った。
「ここからだと一時間近くかかっちゃうけど…。」
「嫌か?」
「ううん。わたしは大丈夫だけど。」
私たちは小さな商店街を抜け、西武線の線路沿いを歩き始めた。その間彼はほとんどしゃべらなかった。少し風はあるけれど、昼間の暑さを引きずって汗がにじんでくる。私たちは途中、自動販売機で冷たい缶コーヒーを一本ずつ買って飲んだ。30分ほど歩いた頃、彼は「なあ。」と公園を指し中に入っていった。
公園内には殆ど人がいなかった。私たちは入り口の近くにあるブランコに座り、残りのコーヒーを飲んだ。やがて、彼はブランコから立ち上がり、「捨ててくるよ。」と私の空き缶を取ってくずかごの方に歩いて行った。私も少し遅れて彼の後について行く。空き缶を捨てた彼は私の方を振り返り、そして真っ直ぐ私の瞳を見つめてきた。
「さち…。」
私は彼の顔を見れなかった。それは恥ずかしさと言うより、合格発表の時の怖さに似ていた。
「俺、この前からずっと…、いや、ほんとはもっとずっと前…、初めて会った頃からだな…。その…、俺が一番自然でいられるのはさちなんだよ。さちと一緒にいる時が 一番楽しいし、一番心が安らぐんだ。俺…、お前の事が好きだ。…今さちが他の男とつき合ってるのも知ってる。けど、こうして毎週俺と会ってくれてるのはただの友達って事じゃないよな?さちだってほんとはそう思ってんじゃないのか、俺といる時が一番楽しいって。それとも単なる俺の独りよがりなのか?」
「違う。」
とっさに言葉が口をついた。
「わたしは…、わたしもずっと悟の事が好きだった。高校の時も、大学の時も、その後もずっと…。」
「さち…。」
悟が私を強く抱きしめた。私の中でずっと抑えられていた感情が、あふれ出してくる。幸福感…。悟に愛されているという幸福感が、私の心を包み込んだ。それは甘く切なく、そしてどこか懐かしい感じがした。私はその余韻にしばらく酔いしれていた。が、強い罪悪感とともに浩一の顔が浮かんできた。
「どうした?」
悟が優しく声を掛けてくる。「ううん。」と私は言い、悟の胸に頭を埋めた。けれど心のどこかから叫び続ける声があった。「本当にこれで良いの?本当にこれが一番良い関係なの?」と。
「関係…。」
ふと、彼とつき合ったとしたらどうなるだろうと考えた。彼とつき合うようになっても、私は今までのように何でも話す事が出来るだろうか?どんなに疲れている時でも彼の話を聞き、そして癒してあげる事が出来るだろうか?
私と悟は『親友』という絶妙の関係だったからこそ、お互いにとって大切で心地よい相手だったのだとその時初めて気がついた。それ以上離れてもいけないし、それ以上近づいてもいけない。そのバランスが崩れた時、きっと私たちは心地よい関係ではいられなくなるだろう。
私は、自分でもびっくりするくらい冷静だった。何故こんなにも冷静でいられるのか分からなかった。
「…ねえ悟、これからわたしが言う事を落ち着いてよく聞いてね。」
私は悟の胸に顔を埋めたまま言った。
「さっ きも言ったように、わたしはずっと悟の事が好きだった。だから高校も大学も悟と同じところを選んだの。いつも一緒にいたかったから。他の人とつき合ってる 時だってそう。悟の事が一番好きだった。だから、さっき悟がわたしの事を好きだって言ってくれた時、ほんとに嬉しかった。」
「うん…。」
「…でもね、わたし今気づいちゃったの。親友としてわたしを見る悟が好きだったんだなって。」
「え…?」
私は顔を上げて、悟の瞳を見つめながら続けた。
「友達って関係はさ、すごく心地良いじゃん…。わたしはその心地良さと恋とをごちゃ混ぜに考えてたみたい。悟といて楽しい気持ちが、イコール恋だと思ってた。 でもね、そうじゃないの。それは間違いなのよ。多分つき合ってしまったら、わたしたちは今のままではいられなくなってしまう。お互い傷つけ合うようになってしまうかもしれない。わたしはね、悟とだけはそういう関係になりたくないの。」
彼は黙っていた。斜め下の方に視線を降ろし、私の言った事を考えているようだった。
「悟。大変な時は、わたしが応援する。何も出来ないかもしれないけど、いつもわたしは悟の味方だから。だってわたしたち友達でしょ?」
悟はしばらく考え込んでいたが、やがて思い切ったように口を開いた。
「… やっぱさちはすげぇな。何つーか、俺の気持ちだけじゃなく、全部を見通してるって言うか…。俺なんか今の状態から抜け出す事しか、楽な方に逃げる事しか考えてなかった。それを、前に進もうとしてるんだって自分に言い訳して…。ほんとはそうじゃないって分かってたのにな。」
「悟…。」
「ただ、これだけは分かってくれ。ただ逃げ出したいからさちの事好きだって言った訳じゃないから。誰でも良い訳じゃない。さちじゃなきゃ駄目だって思った気持ちに嘘はないよ。」
「うん…、ありがと…。」
「はあ…。何かさ、吹っ切れたよ。逃げ場は無いんだって、その、前向きな意味でな。ここで逃げたら、これからもずっと逃げ続ける事になるんだろうなって…。でも俺は一人じゃない。さちがいてくれるから。苦しい時勇気付けてくれる最高の友達がな。」
「うん…。」
「俺さ、今日、さちと友達でほんとに良かったって思った。…ありがとな。」
私たちはそこで別れた。私は彼が見えなくなっても、しばらく彼の消えていった方を見つめていた。
そうして、私の初恋は本当に終わった。

  重い足を引きずりながら、やっとの事でマンションまでたどり着き、エレベーターに乗り込んだ。ゆっくりと変わっていく階数の表示をぼんやり見つめてるうちに、何だか急に浩一に会いたくなった。今すぐ浩一に会って抱きしめて欲しかった。しかし夜ももう遅い。「今から来て。」と我が儘を言うのは、彼にとって迷惑だろうか。そんな事を思いながらエレベーターを降りた時、私の部屋の前に小さくうずくまっている人影が見えた。浩一だった。私は驚きのあまり、その場に立ち止まってしまった。彼は私に近づいてくると、
「何か、会いたくなっちゃって…。」
と、ばつが悪そうに言った。その瞬間、私の瞳から大粒の涙があふれ出した。今まで抑えられていた感情が、濁流のように一気に押し寄せてくる。「この人はどうして、こう、いて欲しい時にいてくれるんだろう。」 と私は思った。それは彼の優しさによるものかもしれないし、単なる偶然かもしれない。でも私は、「ここが私の居場所なんだ。」と感じた。
「大丈夫?…ごめんね。」
彼は相変わらず、私の涙を見ておろおろしていた。そんな彼を見て、私はとても愛しく思った。
「わたしも…、会いたかった。」
私は彼の胸に飛び込んで声を出さず静かに泣き続けた。彼は何も言わずそっと抱きしめて、私の頭を優しく撫でてくれた。
悟とはこの先もずっと友達でいるだろうと思う。二人で会う事もあるだろう。でも、一緒に人生を歩んでいくのは、この人なんだろうと思った。この気持ちは、 きっと変わることは無いだろうと。そのためにも、この人に全てを話そうと思った。全部話したら朝になってしまうだろう。明日は二人して、眠気と戦いながら 仕事をする事になるのかと思ったらつい笑ってしまった。今まで泣いていた私が急に笑ったので、彼は訳が分からず訝しげに私の顔を覗き込んだ。私は彼の瞳を 見つめながら、
「浩一…、愛してる。」
と私の気持ちを素直に伝えた。



-完-


⑩〈幸せな日常〉



女 「ねえ、ウサギとカメの話あるじゃない?」

男 「え?」

女 「ほら、かけっこの話。」

男 「ああ、ウサギが途中で寝ちゃって負けちゃう話だろ?」

女 「どう思う?」

男 「どうって?」

女 「世間的にはウサギが悪くて、カメが良いみたいな見方をされてるじゃない。」

男 「そうだね。アリとキリギリスの話みたいな感じじゃない?
   楽をしようとする方が、結果的にひどい目にあうっていう、ま、戒め的な話でしょ。」

女 「違うわよ。キリギリスは働かずに遊んでたからじゃない。」

男 「ウサギだって、カメが一生懸命走ってる時に昼寝してたんだろ?」

女 「でも、カメは起こしてくれなかった。」

男 「だから?」

女 「アリは忠告してくれたもの、働かないと後で大変だって。
   でも、カメは寝ているウサギを起こさなかった。自分が勝ちたいから。」

男 「・・・結局何が言いたいの?」

女 「カメは悪者・・・。」

男 「・・・・・・。」

女 「どう?」

男 「何が?」

女 「そう思わない?」

男 「・・・そうだね。」

女 「あー、そう思ってないでしょ。」

男 「思ってるよ。思ってるけど、それが一体何なの?」

女 「わたしはそんな事しないわ。」

男 「は?」

女 「わたしはちゃんと起こすし、まず、三歩下がってついて行くもの。」

男 「・・・結局、何が言いたいの?」

女 「ん?だから、えーと・・・、わたしはいい女って事?」

男 「・・・そこに着地するんだ。」

女 「んー、初めはそうじゃなかったんだけど、そうなった。」

男 「何それ?」

女 「まあ、いいじゃない。この幸せ者。」

男 「はあ?」

女 「わたしといられて、幸せでしょ?」

男 「はあ・・・。」

女 「何、そのため息。」

男 「別に。」

男モノ  こんな何気ない日常が、実はとても幸せなんだと思う。
      ちょっと悔しいけれど、彼女の言うとおり、ぼくはとても幸せ者だ。


-完-


⑨〈左手のぬくもり〉



女 「ねえ、別れましょう。」

男モノ  彼女からの別れ話を聞きながら、ぼくは別の事を考えていた。

女 「これ以上あなたとつき合っていてもお互い辛い事の方が多いし、
   わたし、他に好きな人も出来たの。だから、今日で別れましょう。」

男 「辛い事・・・。ぼくとつき合うのはそんなに辛かった?」

女 「・・・・・・。」

男 「別に責めてるわけじゃないんだ。ただ・・・、何がそんなに辛かったのか知りたかっただけの事で。」

女 「・・・・・・。」

男 「いつからだろう・・・。」

女 「え・・・?」

男 「いや、いつから手を繋がなくなったんだろうと思って・・・。」

男モノ  さっきからずっと考えていた事だった。しかし、特に答えを求めていたわけでもない。
      彼女が覚えているとも思っていなかった。

女 「去年の秋・・・。」

男 「え?」

女 「去年の秋、美術館に行ったでしょ?それが最後よ。」

男 「・・・そっか。よく覚えてるね。」

女 「だって、その日を境に、わたしから手を繋ぐのをやめたから。」

男 「・・・・・・。」

女 「手を繋ぐのはいつもわたしから・・・。あなたからは一度だって手を繋いでくれた事はないわ。
   その事すら、あなたは気付いてないでしょう。」

男 「・・・うん。」

女 「あなたはそれなりに優しいし魅力もある。遠くからみるとなかなか素敵だわ。
   でも、あなたの隣を歩いてみて良く分かったの。この人は誰の事も見ていないって。
   あなたの心の中の、自分だけの世界で生きてるんだって。わたしの入り込む余地はなかった・・・。」

男 「・・・だから別れようって思ったの?」

女 「初めは努力したわ。何とか私の方を向いてもらおうって。・・・でも、それも無駄な努力だった。」

男 「ぼくはきみの事を好きなつもりなんだけど。」

女 「ううん。わたしの事を好きだと思ってる自分が好きなだけよ。その証拠に、今あなたは、
   わたしに別れ話を切り出されても、悲しいとはあまり思わないでしょ?」

男 「うーん・・・、どうだろう。」

女 「そうやって冷静に考えられてる事こそ、証拠じゃない?」

男 「・・・そっか。」

女 「その態度も、もうわたしには耐えられないのよ。」

男 「ごめん・・・。」

女 「ま、いいわ。今日で最後だし。最後のついでに、あなたに一つ忠告しておくわ。」

男 「何?」

女 「去年の冬に、わたしが『手が寒い』って言ったら手袋を買ってくれたでしょ?
   確かにプレゼントしてくれたのは嬉しかったけど、わたしはただ手を繋いで欲しかっただけなの。
   そこに気づけないうちは、多分誰とつき合っても上手くいかないわよ。」

男 「・・・ありがとう。覚えておくよ。」

女 「じゃあ、わたし行くわね。」

男 「ああ。」

女 「さよなら。」

男 「さよなら。」

男モノ  去っていく彼女の後ろ姿を見送りながら、彼女の手のぬくもりを思い出そうとしてみた。
      でも、ぼくにはもうそれを思い出す事は出来なかった。


-完-


⑧〈ビックリ箱〉



女 「ねえ、ちょっと聞いてる?」

男モノ  昔お酒で大きな失敗をしたという話を聞いたのが全ての始まりだった。
      面白半分に彼女のコーヒーにブランデーを入れて出したのが三十分前。
      目の前には、耳まで真っ赤にして酔っぱらっている彼女がいた。

女 「ねえってば。」

男 「大丈夫。ちゃんと聞いてます。」

女 「えへへー。」

男 「・・・何?」

女 「ううん。別にー。」

男 「何なんだか・・・。」

女 「耳かゆい。」

男 「・・・あの、いちいち報告しなくていいです。」

女 「はーい。あ、そうだ。今度温泉行こ。」

男 「温泉?」

女 「そう、温泉。近くにパッと行って来られる温泉があるの。夜中に車でちょちょいのちょいって。」

男 「・・・唐突だね。」

女 「どう?」

男 「どうったって、ぼく、車持ってないし。しかも何故夜中なの?」

女 「んー、何となく。楽しそうじゃない?」

男 「楽しそうって・・・。」

女 「じゃあもういい。他の誰かと行・・・、あ、ラーメン食べたい。」

男 「は・・・?」

女 「なんか急にラーメン食べたくなった。ラーメン食べ行こ。」

男 「今から?」

女 「うん。」

男 「だって、もう十一時過ぎてるよ?」

女 「十一時ならまだやってるわよ。」

男 「でも、夕飯食べたよね。」

女 「うん。でも、何かちょっと食べたいのよね。ちょっと。」

男 「どうせ食べきれないんだから。」

女 「残ったらあげる。」

男 「・・・いらない。」

女 「なんでー。食べに行こうよ。イエイ、イエーイ。」

男 「・・・何故、そんなにハイテンションなの?」

女 「うふ。何か、楽しくなってきたよ。」

男 「ぼくは頭痛くなってきたよ・・・。」

女 「ん?何か言った?」

男 「別に・・・。」

女 「ほら、早く支度して。」

男 「本当に行くの?」

女 「もちろん。」

男 「はあ・・・。」

女 「ほらほら、早くー。レッツラゴー。」

男 「・・・はい。」

女 「うふ。」

男モノ  大きな後悔を感じると共に、どこか楽しんでいる自分がいる事に、ぼくはちょっと驚いてもいた。
      多分またいつか、怖いモノ見たさに、彼女のビックリ箱を開けてしまう日が来るだろう。


-完-


⑦〈恋愛小説〉



女 「ねえ、あなた小説書いてみない?」

男モノ  テーブルの上でパソコンに向かっていた彼女が、ぼくの方に振り返り突然こんな事を言い出した。

男 「どうしたの?急に。」

女 「前から思ってたのよ。あなたには文章の才能があるって。」

男 「やめてくれよ。無いよ、そんなもの。」

女 「何でそんな事言いきれるの?現に、プロのあたしが才能があるって言ってるのに。
   ねえ、一度で良いから賞に応募してみない?」

男 「素人がちょっとかじったところでやっていける世界じゃないのは、きみがよくわかってるだろ?
   ぼくはそんなに無謀じゃないよ。」

女 「だったら、本気でやってみればいいじゃない。」

男 「もう、そんな夢を追いかける歳でもないから。」

女 「あら、夢を追いかけるのに年齢は関係ないわ。」

男 「どうしてそんなにぼくに小説を書かせたいの?」

女 「それは、あなたに才能があるって思うからじゃない。せっかくの才能を埋もれさせるのは惜しいわ。」

男 「・・・じゃあ、気が向いたら書いてみるよ。」

女 「期待してるから。」

男モノ  それから一年後、彼女と別れた。結局、その間ぼくは小説を書かなかったが、
      ふと彼女の言葉を思い出して書いた小説が、新人賞を受賞した。

女 「受賞、おめでとう。」

男 「ああ、ありがとう。」

女 「これであなたも、晴れて売れっ子作家の仲間入りね。」

男 「さあ、どうかな。すぐに飽きられて、いなくなるかも。」

女 「そんな事無いわよ。わたしが保証するわ。
   でも、あれだけ嫌がってたのに、どうして急に書く気になったの?」

男 「別に・・・。何となく。」

女 「・・・わたしとよりを戻したかったとか?」

男 「さあ、どうかな。」

女 「そう言う時は、嘘でも『そうだよ』って言ってよ。」

男 「ごめん。」

女 「まあ、良いわ。どうせ、応える事は出来ないんだし。
   ・・・今度結婚するの。ほら、審査員に杉浦直人っていたでしょ?あの人。」

男 「ああ。」

女 「あの人の文章ね、あなたに似てるのよ。知的で繊細で、でも内側に強い意志を感じるって言うか・・・。
   わたしって、文字に恋するタイプなのね。」

男 「・・・おめでとう。」

女 「え?・・・うん。ありがと・・・。あ、そうだ。他の先生方に挨拶がまだでしょ?紹介してあげる。」

男 「いいよ。大丈夫。自分で行く。」

女 「・・・そっか。わかった。じゃあ、わたし行くね。」

男 「ああ。」

女 「受賞、おめでとう。次の作品も期待してるから。」

男 「ありがとう。じゃあ、また。」

女 「うん。また。」

男モノ  去っていく彼女の後ろ姿を見送りながら、ぼくは次の小説の構想を考えていた。
      多分また、報われない恋愛小説になるのだろう。


-完-