仕事という免罪符

本当にただの仕事の用事なら、
必要な時に、必要な相手へ、必要な形で聞けばいい。

それなのに、相手の様子やタイミングを何度も窺いながら近づいたり離れたり、
すぐ聞けることを、人が少なくなるまで待ってから聞きに行ったりする。

「仕事の話だから」と言えば、
すべてが業務上必要な行動になるわけではない。

むしろ、仕事を理由にしなければ接点を持てないからこそ、仕事を入口にしているように見えることもある。

同じことは、チャットにも言える。

すでに閉じたやり取りそのものが問題になり、
会社が「関係者を外さず、オープンに共有しましょう」と方向を示している。

それでもなお、特定の相手と個別につながろうとするのであれば、
「内容が仕事かどうか」だけが問題なのではない。


なぜ、その人に直接なのか。
なぜ、その時間なのか。
なぜ、見える場所ではできないのか。

そしてなぜ、業務のためのツールが、個人的な感情の受け皿になってしまうのか。 

仕事の相談をすることと、自分の不安や寂しさまで相手に預けることは、同じではない。 

 相手が優しいから。話を聞いてくれるから。 断らないから。それを理由に、相手を自分の感情の受け皿にしていいわけではない。

 優しさは、無制限に立ち入っていいという許可証ではない。 


問われるのは、そこだと思う。

長く同じ環境にいると、
自分たちにとって当たり前だったやり方を変える方が、居心地悪くなることがある。

オープンにしましょうと言われるほど、
逆に閉じた場所へ戻ろうとする人もいる。

でも、それでは何も変わらない。

そして、こういう場合に最後に必要になるのは、
接触する側の「察し」ではなく、
受ける側の明確な境界線なのだと思う。

「仕事だから断りにくい」
「角が立つかもしれない」
「そこまで言わなくても分かるだろう」

普通の距離感が共有できる相手なら、それでいい。

けれど、何度境界が示されても同じ形が繰り返されるなら、
曖昧な態度はむしろ、
「まだ大丈夫」という誤解を与える。

だから時には、

これは、この窓口を通してください。
個別ではなく、関係者を含めて共有してください。
勤務時間外の非緊急連絡には対応しません。
個人的な感情の整理を、業務連絡に持ち込まないでください。

と、言葉にして線を引く必要がある。

人を好きになることも、
話したいと思うことも自由。

でも、その感情を処理するために仕事や他人を使い始めたら、
それはもう、相手への思いやりとは別のものになる。

本人は気づいていないかもしれない。

でも、行動というのは、
思っている以上によく見えている。