◆弟橘媛(おとたちばなひめ)

 

 

 「応神天皇の痕跡から考察⑤」の続きです(´・ω・`)ノ

 

 さて、15代応神天皇と12代景行天皇の痕跡が共通して残るのがこの阿南市橘湾付近。

 景行天皇と伊那毘能大郞女との間の子である倭建命、その妃である弟橘姫命の痕跡がチラリと見え隠れする見能林(見能方:みのがた)、そこから鍛治ヶ峰を添うように約3㎞程北上したところに、式内社 建比売神社の比定社である古烏神社がご鎮座致します。

 

 

 こちら

 

 

 近くにある牛岐城(現在廃城)は、築城年代はハッキリとは分かっていません。

 別名は富岡城、浮亀城。

 

 古烏神社(こがらすじんじゃ:徳島県阿南市宝田町川原64 )

 

 

 ◆創立 年代不詳 一説には大宝二年(702年)

 ◆祭神 建比賣命(たけひめのみこと)

 『阿波國式内社考』高姫、あるいは下照姫、あるいは埴安比賣(=建島女祖神)

 大吉備建比売との説もある。
 

 『阿波志』に、「建比賣祠延喜式亦小祠と為す、曰く荒井下村川瀬崎小烏祠即ち是を云ふ」とある。

 川原の産土神として崇敬され、安産の神として霊験顕著であるという。

 度々の洪水で社殿や宝物を失なったとの伝承がある。

 

 祭神の説がある「記」大吉備建比売「紀」吉備穴戸媛は、景行天皇の子の倭建命の妃で、父は吉備武彥命(吉備臣等之祖)、更にその父は若建吉備津日子命(吉備臣之始祖)です。(吉備だらけやね)

 

 「紀」景行天皇51年条に、「妃吉備武彦之女吉備穴戸媛生武皷王与十別城王其兄卵王是讃岐綾君之始祖也」とあり、子の「記」建貝兒王(たけかいこのみこ)「紀」武卵王が讃岐綾君之始祖であると記されています。
 
 同様に旧事紀にも倭建命の妃の弟橘比賣命の子にもまた武養蚕命(たけかいこのみこと)がおり、波多臣等祖とあります。
 ちなみに旧事紀では、弟橘比賣命は橘媛と書かれており、その子に阿波君等祖である息長田別王も見えます。
 武養蚕命と息長田別王は同父母兄弟ということになります。
 
 前稿の讃岐の大麻神社の社伝を踏まえますと、元は長國の吉備橘・見能方(現那賀郡阿南市橘町及び見能林町)に居た倭建命の妃、弟橘比賣命大吉備建比売のことであろうと思われます。
 
 また、『阿波國式内社考』にある埴安比賣(=建島女祖神)は、徳島県小松島市中田(ちゅうでん)町にある式内社 建嶋女祖命神社にて祀られており、別名を建嶋大明神・竹島大明神としています。矢印孝元天皇から考察 ③
 こちら
 
 こちらも例に倣って系譜的なループと思われる同一人物の候補として、
 9代開化天皇の妃である「記」竹野比売「紀」丹波竹野媛(たにはのたかのひめ)で、その父は旦波之大縣主由碁理。
 
 丹波といえば、11代垂仁天皇の話に「紀」丹波道主王「記」丹波比古多多須美知能宇斯の娘の竹野媛の容姿が醜かったために国に返されたお話もあります。
 
 この話は、前皇后の狭穂姫命からのお願いで、後皇后に指名された兄比賣こと比婆須比売命のことで、その父もまた「紀」丹波道主命「記」丹波比古多多須美知能宇斯王です。
 
 丹波道主命は、10代崇神天皇の命により四道将軍として各地にいる戎夷を平定に遣わされていますが、これを現在の地に置き換えてしまうとスケール的に丹波だけしか平定してないんかいビックリマーク的な感じに思えるでしょうが、しかしこれも今の丹波ではありません。
 

 往古の阿南市富岡町(港町であったであろう牛岐周辺)の古地名を「岐比津」と呼んでおり、恐らくそこから西の山側の地名を「丹波(たには)」と言ったのではないでしょうか?

 

 ちなみに仁徳天皇妃である日向髪長媛の父は、諸県諸井(もろがたのうしもろい)で、応神紀13年9月、天皇が淡路島に行幸して狩りをした時に諸県君牛と会い、娘の髪長媛を奉ったとあります。

 そして日向からやってきた髪長媛はとりあえず桑津邑に住ませたとあります。

 

 とりあえず住ませたとされる桑津邑は恐らく阿南市桑野町 こちら

 

 讃岐の淡海(淡路)に向かった鷲住王(須佐之男命=和知津美命)の痕跡経路と阿波日向(阿南市東端地域)から往古地名との位置関係がしっくりきますね。

 須佐之男命の「牛」は皆さんよく知っておられる牛頭天王(祇園神)です。

 

 他に「建」比売に該当しそうなのが、賀茂建角身命の子で、下鴨神社の祭神である玉依比売命・建玉依姫命。

 川上から流れてきた丹塗矢(火雷神が化身)によって賀茂別雷命を懐妊した例のアレです。ふむふむ、妹側にも「建」が付くのね(´・ω・`)

 

 次に、「応神天皇の痕跡から考察③」式内社 宇奈為神社の項で少し触れておりましたが、「藤原氏の末華、紀伊国豪方湯浅権守俊明なる者来たり。仁宇庄を領するに降し…」云々の仁宇庄の場所はこちら

 

 那賀高校や大塚製薬の辺りといえばわかりやすいかな。

 近くに往古弥生期に「朱」が採取できた若杉山があります。

 

 恐らくですが、仁宇庄は当地の仁宇=朱丹の採取活動の拠点で、その統括を若杉山遺跡に隣する現在の太龍寺周辺で行っていたと推測されます。

 

 また那賀郡は、伊那毘能大郞女の「なひ」の発音も、建宇那比命女の「なひ」の発音も「い」と「う」が方言として同音でも通じるエリアです。

 

 辰砂(しんしゃ、cinnabar)は硫化水銀(II)(HgS)からなる鉱物である。別名に賢者の石、赤色硫化水銀、丹砂、朱砂などがある。日本では古来「丹(に)」と呼ばれた。水銀の重要な鉱石鉱物。 (wikipedia 辰砂より抜粋)

 

 ◆辰砂(朱丹)

 

 

 丹(たん)は「に」と呼び、「にふ」→「には」から転じて「たには」から現地名とされる丹波「たんば」になっています。

 ※『和名抄』では「丹波」を「太迩波(たには)」と訓んでいる。

 

 往古弥生期に「朱」の採取が確認されているのは全国唯一、当地の若杉山のみ。

 この地が当時の国家的最重要地であったのは言うまでもありません。

 魏志倭人伝でいうところの「其山 丹有」です。

 

 丹(たん)が採れる地を丹波(たには)と呼んだのが始まりでしょう。

 

 さて、おさらいも兼ねまして、

 次は少し角度を変えまして、忌部からの考察となりますが、「応神天皇の痕跡から考察③」の考察により、那賀郡那賀町にある式内社  宇奈為神社の同名となる宇那比姫命は字義から、「い長比売」となり、即ち当社の鎮守社にもある石長比売のことで、当社祭神である(綿津見視点では)豊玉比売のことであると思われますが、前稿での考察から、石長比売賀志波比売命(御刀媛:景行天皇妃)となります。

 

 建宇那比命女は、10代崇神天皇の妃の尾張大海媛の別名ですから、この時点で崇神天皇=景行天皇の予想が立ちますが、景行・応神両天皇には同名の妃となる迦具漏比売命が居り、子の照合からも少なくとも応神天皇の妃群の宮主矢河枝比売と日向泉長媛=応神天皇の妃の迦具漏比売命も同人物と思われ、これまた世代を超えて景行天皇=応神天皇であろうことが推察できます。

 

 つまりここでは、

 石長比売賀志波比売命宮主矢河枝比売日向泉長媛迦具漏比売命

 その迦具漏比売命の子に、迦多遲王堅石王がいます。

 

 これを阿波忌部系図に落とし込むと、

 

 

 斎主と注ある飯長媛命(い長比売=石長比売)の子に、訶多々主命=堅田主命(=堅石王)が見え、また父には天富命が見えます。

 

 これまでの考察により、飯長媛命の父である天富命は、羽山戸神=大山津見神。

 

 また、wikipedia大麻比古神社の記載には、「下立松原神社の忌部氏系図では大麻比古命は別名を津咋見命その娘を千鹿江比売命としている」ともあり、大山津見神の娘である木花開耶姫命=鹿葦津姫/葦津姫(かやつひめ)を娘としています。

 

 鹿江比賣神社(鹿江比売神社)(かえひめじんじゃ)は『延喜式神名帳』に記載される神社(式内社)。

 『延喜式神名帳』阿波国板野郡に小社(国幣小社)として掲載され、元慶7年(883年)9月5日には従五位上に叙された記録があるが(『日本三代実録』)、現在その論社として以下の2社が挙げられている。なお、祭神は鹿江比売神(命)と見られており、「かえひめ」の訓から草野姫(かやのひめ)と同神とされ(『古事記』には「鹿屋野比売神」、『日本書紀』には「草祖(くさのおや)草野姫」として現れる)、草の神とされている。(wikipedia 鹿江比売神社より)

 「wikipedia 葦稲葉神社」も見てネビックリマーク

 ※摂末社殿宮神社に素盞嗚尊がお祀りされているねグッド!

 

 こちらも併せますと、

 大麻比古命(津咋見命)=(鹿江比売=木花開耶姫命の父)大山津見神=天富命

 

 つまり、由布津主命と飯長媛命の父は共に同じ父で、大山津見神(羽山戸神)と大麻比古命と津咋見命の一致、そして「粟国造粟飯原氏系図」の月夜見命と同神なのは...

 

天富命=須佐之男命

 

 姉妹の「妹」の木花之佐久夜毘売を娶った邇邇芸命は、この忌部氏系図には現れませんが、別名の大若子命(大幡主命)として伊勢神宮初代大神主であったはずです。

 

 経津主神(ふつぬしのかみ)は日本神話に登場する神である。『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。 別名、斎主神(いわいぬしのかみ)、伊波比主神(いわいぬしのかみ)。『出雲国風土記』では布都怒志命として登場する。(wikipedia 経津主神より抜粋)

 

 従って忌部系図にある、

 由布津主命=経津主神=邇邇芸命(大幡主命)=斎主(いわいぬし)=須佐之男命の息子

 飯長媛命=斎主は須佐之男命の娘

 

 で、須佐之男命の息子娘から初代神武天皇が生まれたのであれば、=堅田主命堅石王)が該当します。

 

 ただし、これまでの「応神天皇の痕跡から考察」シリーズにより、須佐之男命の息子の位置は引き続き須佐之男命で延ばしている可能性はあります。

 天背男命 - 天日鷲翔矢命 - 大麻比古命は全て須佐之男命と同神にも比定できます。

 天富命もそうですが...(´・ω・`)

 

 そうなると子の記載となっている堅田主命も、須佐之男命or八重事代主命or初代天皇?等々多彩な選択肢に。(引き延ばしが確認できる以上、結局この時点ではわからん)

 

 ということで堅田主命の比定に入る訳なのですが、堅田主命=堅石王であるとすれば、応神記末尾には、

 

 「又、堅石王之子者久奴王(くぬのみこ)也とあり、

 

 これが邪馬臺国で言うところの「其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不属女王 (中略)狗奴國男王卑彌弓呼素不和。

 

 「その南に狗奴国があり、男性を王と為し、官には狗古智卑狗があり、不属女王に従属していない。(中略)狗奴国の男王卑彌弓呼は元より不和。

 

 に比定できる可能性があるのではないでしょうか?

 

 この場合、卑彌弓呼の読みは、「ひみここ」ではなく、「ひみこと」なのか。

 であったとしたら、卑彌呼(ひみこ)と卑彌弓呼(ひみこと)との抗争となり、同族同士の(のちの)天皇家による権力争いだったということになります。

 

 恐らく現時点では石長比売が卑弥呼と推測され、卑弥呼については魏志倭人伝に、「年已長大、無夫婿」「年齢は既に高齢で夫はなく」とあり、また、石長比売の妹である木花之佐久夜毘売の「自分の子ではない」という話の内容からも、共に須佐之男命の子である由布津主命と飯長媛命の子は、実は実子ではない、もしくは描いている父母の子ではないという可能性も考えられます。

 そこに、継承における揉め事の原因があったのではないのでしょうか。

 

 この「くぬ」にヒットするのが「記紀」では唯一、『古事記』:上つ巻

 「兄八嶋士奴美神 娶大山津見神之女名木花知流【此二字以音】比賣 生子 布波能母遲久奴須奴神

 

 「兄の八嶋士奴美神、大山津見神之女、名は木花知流【此の二字音を以ちゐる】比売を娶せて、子、布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)を生みき。」

 

 須佐之男命の子から大國主神に至るまでの系譜を列記する冒頭に出現するのみ。

 

 八嶋士奴美神は須佐之男命の息子、その子に布波能母遅久奴須奴神となっています。

 妻の木花知流比賣、これもまた大山津見神の娘ですが、その神名は、木花之佐久夜毘売の「咲く」と「散る」の対義語とも取れます。

 しかし、姉の石長比売が「恒如石而、常堅不動坐。」「石の如く永遠に堅く動かず変わらないもの」なのですから、咲くのも散るのもやはり同じ花であるともいえます。

 従って『古事記』では、系譜を延ばし描いているのはあくまでも「妹」の木花之佐久夜毘売ということなのでしょうね。(それも自分の子ではないといっていますが...)

 ここでの「くぬ」の子は、須佐之男命の孫の位置になります。

 

 また、考え方の一つとして、大国主命が須佐之男命と同じであるとすれば、大国主命までに至る列記系譜もまた須佐之男命とその妻の連続である可能性もあります。

 そう考えられる理由の一つに、大国主命は、須佐之男命とは6世も離れているにも関わらず、常識では非常に考え辛い事に須佐之男命の娘の須勢理毘売を本后に迎えているのです。

 つまり須佐之男命から須佐之男命の娘を娶ることを連続して繰り返している、即ち大山津見神が大山津見神の娘と結婚しているのと同じ構図であるとも考えられるからです。

 

 八嶋士奴美神と木花知流比売(父:大山津見神)の子、布波能母遅久奴須奴神は、この場合、堅石王の子の久奴王に対応すると考えられ、「子」と書かれてある関係性から、須佐之男命の息子であるといえそうです。

 この考え方に基づくと、堅石王=須佐之男命、久奴王=その息子、がまず候補となります。

 

 これとは別に2つ目の「くぬ」、『旧事本紀』:「国造本紀」

 「伊勢国造。橿原の帝(神武天皇)の御世に、天降る天牟久怒(あめのむくぬのみこと)の孫天日鷲命を勅し賜いて国造に定む、即ち伊賀伊勢国造の祖。」

 

 天牟久怒命=天村雲命は、須佐之男命の子である五十猛命と同神だったはず。

 矢印天村雲命から考察

 

 で、「天降る」とわざわざ記されてあるのはやはり天孫降臨した邇邇芸命と思われ、邇邇芸命の父である正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命もまた「粟国造粟飯原氏系図」より須佐之男命と同神です。矢印「宇気比」から考察 ①

 よってここの「くぬ」は須佐之男命の子。

 

 最後の3つ目に、

 出雲国造(いずものくにのみやつこ、いずもこくそう)は、出雲国(現在の島根県東部地方)を上古に支配した国造。その氏族の長が代々出雲大社の祭祀と出雲国造の称号を受け継いだ。

 『先代旧事本紀』の巻10『国造本紀』によれば、第10代崇神天皇のとき、天穂日命(あめのほひのみこと)の11世の孫である宇賀都久怒(うかつくぬを国造に定めたとある。『古事記』によれば、无邪志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・遠江国造も天穂日命の子神・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)を同祖とする。(wikipedia 出雲国造より抜粋) 

 

 『古事記』によれば、天菩比命之子、建比良鳥命 【此出雲國造无耶志國造上菟上國造下菟上國造伊自牟國造津嶋縣直遠江國造等之祖也】

 

 …とあり、始祖天菩比命から繋がる系譜で、その息子が建比良鳥命です。

 建比良鳥命は別名、天鳥命(あめのひなとりのみこと)。

 

 第12代景行天皇の条には、小碓命(をうすのみこと、倭建命)が地名を名に負う出雲建を殺した話に見えるように、上古の出雲地方を中心に大きな勢力を誇った出雲氏が、ヤマト王権下において出雲国造に任ぜられたもの。

 

 この話に集約されているようにも思えますが、つまり出雲の「建」は、小碓命により殺され、「建」の名を受け継いだ。

 この「建」の名を継いでいるのは、歴代国造の中でも2代目の比良鳥命(天夷鳥命)だけです。

 その10世の孫である宇賀都久怒(うかつくぬ)を国造に定めています。

 

 歴代出雲国造にある11代目国造は、阿多命(出雲振根)で、神宝を崇神天皇に差し出した弟の飯入根を殺し、崇神天皇の命により吉備津彦らに誅殺されたとあります。

 

 「阿多」の「堅石」といえば、吾田片隅命(あたかたすみのみこと)、別名阿多賀田須命は素盞鳴尊八世孫、和邇君の租神で「新撰姓氏録」では「宗形朝臣、大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也」とあります。

 古事記の系譜で行くと八世孫は丁度八重事代主命の位置ですなぁ。

 

 現鹿児島県(薩摩国)阿多郡があることからも、阿波の阿多が海陽町の薩摩(※参照「薩摩から考察」)だったとすれば、出雲(いづも)は、伊の薩摩(いのさつま)、つまり端っこ(詰:つま)のことから「いのづま」⇒「いづも」となり、長國でも最南にある海部郡のことのように思えます。

 

 そうなると、海部郡海陽町宍喰にルーツを持つ鷲住王の話とリンクし、兄履中天皇が殺した同母弟の住吉仲皇子、履中天皇の義弟で描かれている鷲住王(=須佐之男命)の話と崇神天皇時の話も符合します。

 

 高天原からの使者に国譲りを要請され、幽冥界に行ってしまった大国主命、バトンタッチをされたのは息子である「夷」こと八重事代主命ですね。

 

 3つ全てを集約しますと、これ等全てに当てはまるのは、「くぬ」=須佐之男命の子、(現時点で)八重事代主命=久奴王と推測されます。

 

 

 今回のオマケ(時々やることにした)

 

 11代垂仁時に、品牟都和氣命のために鵠(くぐい)を捕まえる話がありますが、

 

 ◆徳島県阿南市橘町鵠(くぐい)

 

 

 :くぐい、くくひ、こひ 〔和名抄〕白鳥の古名。(大辞林 第三版より)

 

 白鳥といえば? (´・ω・`)ひらめき電球

 白鳥となって飛び去った倭建命の霊が最終的に讃岐の地に舞い降りたという伝説も残っており、阿波・讃岐共に倭建命を祭神とする白鳥神社があります。(阿波の白鳥神社が元社としています)

 

 当地阿南市橘周辺の話を中心に本シリーズ(一応、応神天皇からの考察)が展開されていますが、これまでの考察からも、妃や皇子女の照合結果から、応神天皇=景行天皇として話を進めております。

 

 今後の更なる照合結果により、その精度を高めて照明していかなければなりませんが、少なくとも当地におきましては、両天皇に纏わる痕跡が随所に認められます。