3月5日、入院の日である。
そして、この日は秘境の母が叔母と
京都に旅立った日でもある。
楽しみにしていた京都旅行を、私の
ために反古にするのは申し訳なくて、
母の十歳年下の妹(叔母)と一緒に
行くよう強く勧めたのだ。
母と叔母は年が離れているとは思え
ないくらい仲が良く、きっと楽しい
道中になるだろうと思えた。
そして、まさにその通りの珍道中に
なり、いっぱいの思い出を抱いて、
翌年の秋、叔母は膵臓がんでわずか
3ヶ月病んで鬼籍の人になった。
話が逸れたが、入院した日に明日の
手術のために、患部に注射して染色
する(今もよくわからない)施術を
受けた。
翌朝は9時からの手術予定なので、
長女は間に合うように来れない。
3月6日。
夫が早起きして、病室を訪れた。
私は不思議なくらい熟睡出来て、
意気軒昂だ。
ストレッチャーに乗せられて手術室に
入る時、夫に向かってVサインをした
のを覚えている。
手術が始まる前、看護師さんが
「点滴に麻酔の注射を入れますね」
「はい」
・・・・・・
すると、すぐに「○○さ~ん❗️」と
呼ばれ「あれ?何か忘れ物でも?」
と目を開けると
「手術は終わりましたよ」
その間、3時間余り。
麻酔を入れた記憶すらない間に、手術は
終わっていたのだった。
従兄が言ったように、ぐっすり眠って
起きたような爽快な目覚めだった。
病室に運ばれ、夫と長女と対面。
言葉は少なく、深い眼差しには安堵が
あふれていた。
思いがけなく隣県から従兄夫婦まで
車を飛ばして駆けつけてくれていた。
意識朦朧の状態を予想していたので、
私が普通に喋るのを不思議に感じた
そうだ。
それでも、点滴や導尿の管に繋がれ、
その夜は誠に窮屈だった。
おまけに、どういうわけか、痰が
ひっきりなしに出て、取っても
取っても幾らでも出る。
枕元に置いたゴミ箱は、見る間に
ティッシュペーパーの山になった。
寝苦しい夜が明け、初めて生かされて
いる自分を感じることが出来た。
午前中に男性の看護師さんが、
「今日は点滴も外しますからね」と
言われ、慌てて「では、痛み止めも
入らなくなるのですね?」と問うと、
不審な顔。
「点滴に痛み止めは入ってないですよ」
今度は、私が不思議な顔になる。
傷口はかなり広いと思うのに、実際
切除された患部を見た夫と長女は
「えっ!そんなに切ったの?」と
思ったそうだが、それでも痛みは
全くないのだ。
痛みは、組織の生検や前日の注射の
方が強かったと思う。
その日の午後は、長女の嫁ぎ先の
夫妻と、夜になって元の勤め先の
友人が見舞ってくれた。
心配していた退院は、翌日の午前中に
決まり、正味3日間の入院生活に
終わりを告げ、夫に連れられ、まりんの
待つ我が家に帰って来た。
がん細胞は切除したし、入院も最短
だったから、全てが終わったと呑気
に構えていたが、そうは問屋が卸して
くれなかった。
続きます
「なまちゃん、ボクずっと待って
いたんだよ」


