私は【人は応援してくれるものだ】と信じたかったんだよね。



だから、ここ最近「私は応援してもらえない」気がしていて、勝手に悲しかった。



そもそも、
【人は応援してくれるものだ】と思いたかったのは、
母に期待していたから。



だけど、その期待は外れた。
中学3年のバレーの大会でのこと。
おそらくバレーの大会以外にも常日頃から感じていたんだろうけど。



私は母親に蔑まれて、悲しかった。





ここで大事なのが、

【人は応援してくれるものだ】と無理矢理信じるより、


まずは私は【母にすら応援してもらえなかった】
私が【やりたいことは否定される】
という前提で生きてきた悲しみを見ることだった。



発散したんだけど、、、


ううえーんえーんえーん


もう、「がんばって」発散をするじゃなく、
何かの目的のために発散をするんじゃなく。



ただただ溢れ出て流れ出てくるものを、
溢れ出てくるままに感じて出しているのが本当に嬉しい。
私が私でしかないから。






そして、【人は応援してくれるものだ】という前提のことなのだけど。


母親への期待だったけども。




もう一つ覚えていることがある。
これは嬉しい記憶として残っていること。


それは、保育園の先生との思い出。

私が5歳の時の担任の先生。



私が縄跳びのうしろとびの練習をしていた。
「なわとびが何回飛べるか?」という表があり。


私は目標の回数まで飛べるように頑張ってたのね。
目標まで飛べるとメダルが貰えるんだよ。
メダルが欲しかったんだよね。
メダルが可愛かったの。



それで、
保育園の先生は、みんなでなわとびをする時間でもないのに、私のうしろとびを数えてくれるということがあった。
確かお昼ご飯の後とか?さすがに曖昧だけども。



私1人だけのために時間を作ってくれて、飛んだ数を数えてくれた。
見てくれていたことが嬉しかったのかな。


それがなんとなくの記憶でしかないけど嬉しかったんだよ。



だから、
私は保育園の先生のように
人は応援してくれるものだ】と信じたい自分もいたけど、


母は応援するどころか娘を蔑んでいた。


だから私は
人は応援してくれない、否定してくる】という前提を持ちながらも、
母を庇いたいから
本当は応援してくれていたんではないか】という期待もあったのだと思った。



保育園での出来事で、
応援してくれる人がいて嬉しかった経験はあるんだ。
だけど、母に応援されないのだから、そうではないのだろう… だけど、お母さんは私のことを応援してそうな顔するし…って。
先生よりもやはり母親の影響があり。



信じたい気持ちと、
悲しみの気持ちと、
庇いたい気持ちとがあると思った。



だけど、
なによりまずは、
【人は応援してくれない、否定される】と感じていたことを蓋せずに悲しむことが先だったんだね。




【応援してくれる人っているんだ…】も感じているつもりだったのに、
【やっぱり応援されない…】と悲しかったのは。



そもそも【私は応援されない】という前提の悲しみに蓋をしていたからだった。




また一つあったかくなれた。



自己紹介
名前:マリアナ
ナリ心理学®︎認定心理者養成講座受講中
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