おばあちゃん さようなら | まりまにっき

まりまにっき

since2005〜

祖母が12月13日に亡くなりました。93歳でした。
以下、全部自分のためのメモなので悪しからず。

10月30日(土)
施設から自宅に帰宅する際、熱があるとのことで病院を受診。
レントゲンの結果、右の肺に穴が開きしぼんでしまっている(気胸)、肺に水も溜まっている、と診断され入院することに。
この時は自覚症状が無さそうで、話もできた。
喉はたんが絡んでゴロゴロしていた。

11月20日(土)
医師の退院許可が下り、退院。病院まで施設の方とお迎えに。
入院中は食事の量が減ってしまったそうで、かなり痩せてしまっていた。
意識レベルが低く、話しかけても答えがなかったが手を握って喜んでくれた。
施設のベッドで、お金はどうなっているの、と心配していたので、
おばあちゃんの口座から払っているから大丈夫(家族には迷惑かけてない)よ、と話した。

11月21日(日)
夕方施設から電話があり、熱があるし食事も摂らない。昨日の今日の話なので、もう一度病院で診てもらったらどうかとのこと。父と病院へ行き、施設の方と待ち合わせ。
救急の先生曰く「この状態で退院させたのはおかしい」。とのこと。再び入院。

11月30日(火)
午前中病院から電話があり、主治医から病状説明をしたいとのこと。
ちょうど授業参観・懇談会の日で、終わり次第病院に行くと伝える。
16時に病院到着。主治医の話によると、完食を「10」とすると、ここ1週間ずっと「0」か「1」。
炎症反応と脱水がひどい。
そろそろ今後のことを考えてもらいたい。
胃ろうを行うか、点滴で持たせるか。
本人も胃ろうをしてまで生きることは望んでいないし、家族も同じ。
自然に任せたい、と伝える。

いよいよ終わりが近い、ということで面会を望んだが、
コロナで厳しく制限されていて親戚同士で一悶着あった。
条件:1週間に一度、2名まで、30分程度。事前予約。コロナワクチン2回摂取済みの証明書持参。

祖母には娘が二人いて、次女が私の母。
長女は反ワクチンのためワクチン未接種で、面会NG。
母と私の兄で11/7予約を入れようと思ったが11/6にいとこ夫婦が既に予約ずみ。
いとこ夫婦は祖母とは非同居で最近では結婚式くらいしか会っていない。
最後になるかもしれない面会で誰が優先的に祖母と会うのかかなり揉めてしまい、
私がなんとか病院の相談員に最期だと思うのでと懇願交渉し面会が許される。
その後、病院の計らいで祖母を個室に移してもらえたことで1週間の面会人数の制限が無くなり、いとこ夫婦も母と兄も無事面会することができた。

12月9日(木)
会社を早退し、私と夫で面会へ。
誤嚥性肺炎を起こしてしまった祖母は酸素マスクをつけて、呼吸がとても苦しそうだった。
会話はできなかったが、まりあだよ、わかる?早く元気になって家に帰ってきてね、と呼びかけると頷いてくれた。手が冷たく、点滴を刺した右の手の甲はむくんでいる。
点滴の管がぶら下がり、真っ白い壁に囲まれ・・とてもいたたまれない気持ちになった。
帰り際、相談員の方に看取りについて伺ってみた。

親戚から自宅での看取りはどうかと言われたが?
→今の状態では難しい。それに、自宅で看取るためには家族全体の協力が不可欠。(うちは大人3人仕事に出てしまい、母も障害度3でヘルパーもついている状態なので難しい)

個室にしてもらったことで面会人数はフリーになったが、仕事をしており17時まで、という時間の制限は難しい。
→時間は病院全体での決まりなので17時以降の面会を許可できない。

12月10日(金)
病院から電話があり、7月に一時期入院していた地域包括支援病棟に移動するのはどうかと提案。
今入院している一般病棟は看護師がバタバタしており落ち着かないと思うので、その病棟だったら落ち着いた雰囲気で看取りができると思う。ただ、1日8,800円かかる。
→残された日数少しでも落ち着いた雰囲気の中で過ごしてほしいから即決でお願いした。
部屋が変わるため書類を書きに会社帰り病棟へ。特別に祖母のいる部屋に案内してもらえた。
一般病棟とは違い温もりを感じる部屋だった。祖母は酸素マスクをつけ、苦しそうだった。

12月12日(日)
父に病院から電話。少し元気になったと。
看護師に「おはよう」と声をかけるなど、声も出ていると。
ほっとした。

12月13日(月)
休日の父と母が午後面会へ。母の手を強く握り返すなどしたとのこと。
しかし、帰宅してすぐに病院から電話。呼吸と脈が弱くなり、最期かもしれないと。
私の方にも電話があり、終業まであと1時間だったが早退することに。
病院に着くと父と母が既に到着しており、祖母に呼びかけている最中だった。
反ワクチンのため面会できない伯母のためにLINEビデオ通話で祖母に呼びかけてもらった。
兄もいとこ夫婦もこの後駆けつけるとのこと。
なんとかまだ息があり、子供のこともあるので、私たちも一度帰宅し夕食を済ませ、
もう一度病院へ向かうことになった。
父と母が先に出発し、
夫に家で子供を見ていてもらいながら、私も出発。
時間外だったので夜間出入口から守衛の方に声をかけると内線中で「3D(病棟)の方亡くなったって」と話す声が・・。

19:20 臨終。

その後、兄二人、いとこ夫婦も駆けつけ。
葬儀会社の方が見えて、病院から葬儀場へ搬送。

12月14日(火)
会社を特休で休み、父と葬儀場とお寺を行ったり来たりして打ち合わせ。
通夜・葬儀の日程決め
遺影の写真の準備
お墓の名前彫りの手配
メモリアルコーナーの準備
仏壇周りの片付け

12月15日(水)
私は通常通り出勤。
父と母は納棺に立ち合い。
お化粧は美容師の伯母が。

12月16日(木)
通夜のため午後早退。夫とラーメン屋で待ち合わせ昼ラーメン。
その後スーパーに寄って、棺に入れる祖母の好きだったお菓子を買う。

17時通夜
20年以上ぶりにいとこと再会したり。
この日、私は伯母とお線香番で葬儀場に泊まることに。
前々から伯母が見たがっていた古〜いアルバムを持って行って、0時過ぎまで一緒に見返し。
外は天気予報どおりの雨が降ってきた。
1時近くにベッドに入ったけど、やっと涙が出てきて
泣いて泣いてほとんど眠れず。隣で寝ている伯母を起こさぬよう静かに。

この時、弔辞を読むことを決めた。

早朝6時半帰宅。雨は止んだ。

12月17日(金)
弔辞の文章(手紙)を汚い字で大急ぎで書き上げた。
11時葬儀場へ。

代表で弔辞を読む。

おばあちゃんへ
おばあちゃんは自分に厳しく人に対して優しい人で、特に家族に対してはとてもよく尽くしてくれるような人でした

朝は必ずだいたい決まった時間に起き、ほんの少し寝坊しただけで申し訳なさそうに起きてきました
少しそこの薬局に出かけるだけでも、きちんとお出かけ着に着替え、サンダルでは無く靴を履いて出かけました
家では毎日ほうきがけをし、家をきれいに保ってくれました
私が仕事から帰ると、これくらいしかできなくて申し訳ない、と言いながら、ごはんが足りなければお米を研いで炊いておいてくれたり、みそ汁を作って待っていてくれました

子供達が学校から帰ってくる時に、私は仕事で不在なので、必ずお帰りを言って待っていてあげたい、誰もいない家に帰って来させたくない、と言ってくれていたおかげで、子供たちは安心して家にまっすぐ帰ってくることができました

家族に何かおめでたいことがあるたびに、心から喜んでくれました
おばあちゃんはいつもみんなの味方でした

そんな自分に厳しく、家族思いのおばあちゃんがいてくれたおかげで、それぞれが幸せに生きることができています


心配性なところもあったけど、何も心配せず安心して旅立ってください
いつも味方でいてくれてありがとう
今まで本当にありがとう
さようなら



読んでる最中、旅という字が族になっていることに気づく。(オイ

お菓子、お茶、みかん、祭壇の花を棺の中へ。
遺影を持ち、霊柩車へ喪主の父と乗り込む。



おばあちゃん93年お疲れ様。
寂しいです。
いただいた命、大切にこれからも生きていきます。