明治宮中出仕の記

明治42年、18歳で宮中に仕えた華族久世家の長女三千子の手記です

 

 

1909年、三千子(ミチコ)が親戚のすすめで宮中に奉仕したのが18歳の夏。公卿の家の風習では学校の往復にも女中がついてきて、子女の自由が無視されていることに反感を持っていたので絶好のチャンス、東京に出てみたい好奇心もあったそうです。

 

宮中の序列、ヒエラルキーというかカースト、上位カーストの女官は華族出身で次位カーストが士族出身と上下関係がとても厳しかったようです。

 

職名の典侍(テンジ)は天皇のお世話をするお妾のこと、三千子は内侍(ナイシ)で皇后の身の廻りのお世話、化粧や着替え・食事の配膳などを手伝う役割だそうです。

 

柳原典侍は大正天皇の生母ですが、身体も小さく地味な性格と三千子は辛辣に表現していています。皇后については小柄で華奢な綺麗な方と絶賛され、明治天皇も磊落で思いやりのある立派な方、ずばりストレートに書いています。

 

知的で勝気で負けず嫌いな性格らしく、皇后のご機嫌取りしているなどと同僚から陰口され、上司からは丸くいくようにと注意されたりもします。なんとなくですが、清少納言的な人柄なんでしょうかね。

徳川時代の大奥の女たちが、おたがいにいじめ合うというような馬鹿らしい話はないとしても、他人の失敗を見つけて喜ぶような人が、ないでもございませんでした。

とのことで、半端な気持ちでは勤まりそうにない仕事のようです。

 

明治天皇の崩御後、大正天皇が即位。新帝に勤めるようにと言われても「皇太后(=明治天皇の皇后)に仕えるのでなければ生家に帰らせていただきます」とまあまあ強気な三千子です。文展という日展のような催しに出かけ、好青年を紹介され強く惹かれても立場を考え諦めようとしますが‥

 

皇太后が亡くなり、三千子は生家のある京都へ帰ると縁談が殺到します。が、催しで出会った青年が忘れられず人を介してめでたく結婚し山川三千子となります。

 

自分軸のしっかりした聡明な女性で、明治天皇を称え大正天皇には批判的です。宮中の暴露本的なこの手記は、1960年に刊行されたそうです。

 

明治・大正時代の宮中の常識や行事など、三千子が見て聞いて体験したことがはつらつと書かれています。庶民の知らない宮中は異世界のようで興味深く読みました。