こんにちはニコニコ
お変わりありませんか。

わたしはと申すと、元気かと思うと翌日はなんとなく調子よくないわと体調のアップダウンに驚く日々。今までは仕事も飲み会も男性並みにこなしてきた自負があるが、これが段々と通用しなくなり、自分のやる気と身体のバランスが崩れてきた。これこそが更年期障害と呼ばれる症状なのかと良くも悪くも味わう時間で、この際だから日本にも浸透してきたお酒を飲まない「ソバーキュリアス」という海外のライフスタイルを取り込むことも視野に入れて、元気で長生きをしたいと思う。いやいや全く飲まないとは嘘ツキだなてへぺろ

さて、女性の社会進出につれ、不健康な量のお酒を飲む女性が増えてきたと聞くが、わたしは不安と寂しさと我慢して言えなかったことが多く、酒量と比例していく日々を多く過ごしてきた。

おかげさまで現在は理解してくれる人に囲まれ、無理やりにお酒をがぶ飲みする状況ではなくなった。美味しい料理を食べながら、ゆっくり会話ができる時間にしみじみとした温かさを感じる。結果、長いあいだ抱えてきた問題のグリーフケアにつながった。

また調理をするのはママゴトレベルだが、たとえば美味しいじゃがいもの煮っころがしの味見の時にささやかな幸せを感じるようにもなり、同時に主婦の大変さも知った。

2024年、父の日に思うのは、日本全体がまだ「国あり、家なし」の古い既成概念が残っていること、男性が上座に座っている社会が変わってほしいことを願い、自分はなにができるだろうと考える日になった。

「2024 父の日」のために亡母・陽子の大好きだった向日葵をアレンジしていただいた💐鈴木生花店の鈴木 浩文さま、河西 長生美さまに感謝泣き笑い

今週は友人の男性が自ら企画した「餃子を皮から作る」クッキング会に参加する約束が楽しみだ。先を行く考え方に希望を感じる。男性も家事を一緒にしてみれば、ワンオペで仕事も家の中も担う女性の大変さが理解できると思う。

7月7日の都知事選も誰を選ぶか法案を聞き考え、また療養中のイギリスのキャサリン妃の家事は少しはウィリアム王子も協力するのだろうかと頭をめぐらせてもいる。そもそも侍従がたくさんいる人は凡人とはまったく違う環境であろうから、そんなおかしな疑問を思う自分に苦笑した笑い泣き


清水まり子の芸名は亡き母の意向で、本名の清水真理子では固いので真理子からまり子に決めたのである。1988年(昭和63)年の17歳の甲府の高校生に発売した武田信玄公を題材にした「昭和の信玄おとこ節」から、学芸、いわゆる子供の歌「大山太鼓」を皮切りに毎年2曲×10年。37年間の歳月、大切にしている名前である。



(1989年(平成元年)春、山梨日日新聞の記事、引用)。


高校3年生で間もなく卒業という1989年(平成元年)1月5日に乳ガンで闘病5年半の母が45歳で逝った。母の葬式には昭和天皇が崩御召され日の丸の国旗が喪になっていた風景が目に焼き付いている。卒業後に開いたコンサートで盛大に故郷を送り出してもらったことは忘れない。恩師、友人、地域の人々には本当に恵まれた。大切な故郷。6月にはあの美空ひばりさんが逝った。


山梨日日新聞の当時の記事は、ずいぶん持ち上げてくれている。大スターとは笑わせるし、有難い話ではあるが、今おもえば恥ずかしい気持ちになる。


その後、上京したものの正直仕事がなく、叔母にもう一度、予備校に入り直して大学に進学したらと何度も説得を受けたが、盛大に送りだされた以上、戻るに戻れない状態でありもう歌の道しかないと退路を絶った。

(1988年、高校生歌手でレコードデビューをした時、地元、山梨県の岡島デパートで開かれた清水まり子を祝う会にてクラッカー)。
地元、山梨県の作曲家、右から、望月吾朗先生、まり子、東芝EMI 邦楽制作本部 ディレクターの佐藤 方紀 氏 とご一緒にキラキラアップ
1988年(昭和63年)、山梨県甲府市の1日警察署長で甲府駅にて歌唱。17歳。

1989年(平成元年)の春、高校卒業と同時に上京し、ご縁に恵まれ6年間の三沢あけみ師匠の修行中もたくさんの関係者にお世話になった。その間いくつかの楽曲が巡ってきたが決定打にかけ時を待つ中、ある曲がきた。内容は、男手ひとつで娘を育て嫁ぐ日の父親の気持ちを綴った「父娘坂」。歌詞をみた時、号泣した。まさに23年間歩んできた自分の人生そのもの。だからこの歌に命を懸けようと一念発起したがこれが手強かった。出だしの民謡の津軽山歌を基本にしたルバートが特に難しく、電話番と前歌、全国各地の営業の間、必死に作曲家の稲毛康人先生の稽古場である南行徳に通い続けた。声帯から血を吐くほど練習した。執念をこめて「父娘坂」に取り込み、小さなスタジオでレコーディングを終えた後の打ち上げは関係者が一丸となり拳を振り上げた風景も忘れられない。また元祖「父娘坂」を発売された「秋 湖太郎 」氏も父と同じ昭和19年生まれであることにご縁を感じ、エネルギーをより注げることができた。





下記、1995年「カラオケファン」から引用ダウン


売れるまで何回も名前を変える往年の諸先輩方と違い、わたしは1987年から、プロダクションが変わろうがレコード会社が変わろうが、屋号の清水まり子は変えていない。既に37年の時を経た。それについて誰も何の戦略もなくアドバイスを耳にしたことはない。業界では珍しいと思う。だが少しでも売れたら途端に周りの人間が豹変するのにはここに至るまで経験し、戸惑いを感じてきた。作品作りどころではなくなり、集中ができなくなる。争いごとは疲弊するだけで何も生まれない。平和に穏やかに人が喜んでくれる道を今後も歩いて行きたい。
さまざまな経験に感謝している。
昭和の信玄おとこ節からレコードデビューし、父娘坂だけに限らず、挑戦を続けてきた。
どの時代でも感謝なのは、その時々に必要な人との出会いに不思議といつでも恵まれることだ。
コロナ禍に入った2020年に父娘坂というキーワードを入れた「父さん、あのね。」を発売し、翌2021年4月から念願の学び直しの学校に入学したことで現在につながった。

上記は今日「父の日」にちなんで学舎の佐藤壮広先生が執筆してくださったコラムであるアップ

家族の温かさに、やけにこだわりがある清水まり子の歌に気付かされる2024年(令和6年)の父の日でもある。
(今年2024年父・明と娘・まり子と甲府の実家にて爆笑)
おかげさまで父娘とも元気です音譜まさしく父娘坂を地で行く人生泣き笑い
だがあれは23歳で時代背景もあり、関係者の熱い思いが一致したからであり、わたし1人では出来なかった。今の53歳ではあの初々しい雰囲気は出ない。いつでも“その瞬間”を捉える感覚が重要だと思う。

清水まり子にかかわってくださいました関係者・各位の皆々さまにあらためて、心から深い感謝を申し上げます。

「あなたへ…」のひまわりは、亡母が大好きだった山梨県北杜市明野のひまわり畑をイメージして書いている飛び出すハート



今後も挑戦は続けるつもりである。


それにしてもわたしはくどいわ煽りあせる

長い文章にお付き合いいただき、誠にありがとうございます🙇


清水まり子ドキドキ