気が付いたら子どもの頃から

大きな声で毎日唄っていた。



国鉄からJRに変わった時、私は高校2年生。

学生の演歌歌手誕生ということで

相当チヤホヤされた。

思えば勘違いの幕開けだった。

当時、山梨県甲府駅の1日駅長に任命され、

駅前で歌唱。何故か「越冬つばめ」も

選曲の中の一曲であった。

歌詞を理解出来ていないのに今考えれば

赤っ恥だ。


ピアノは5歳から稽古に通わせてもらい、

あまりにも激しい弾き間違いに

ショパンのようなルックスの男性教師に

よく手をひっぱたかれた。

ある時は自分の通学する小学校の校庭で

地元のテレビ 局UTYが来て、

誰でも唄ってよいとの話を耳にして、

なぜか即興で「くちなしの花」を唄った。

当時、小学5年生🎒調子づく子供だった。

また全国ネットのテレビにも出たくて

オーディションを受けまくり、

中学2年生で日本テレビのちびっこ歌謡番組に

これもまたなぜか?

一人で「ふたりの愛ランド」を

スクールメイツに踊って頂き歌唱。

ドラえもんの声優 大山のぶよさん、

作曲家の宮川泰司さん、

アイドルの早見優さんetc 

審査員を目の前にして大股のガニ股で

得意げに踊り唄った。

その後の大山のぶよさんの

一言に打ちのめされた。

「そのおおきゃくを直しなさい。」

くやしくて泣いた。

その帰り道、

東京タワーの最上階で絵描きに描いてもらった

似顔絵が想像している以上に

ブサイクでショックを受け

東京はレベルが高いのを知ると同時に

甲府へ帰る高速バスの中でも

くやしくてまた泣いた。

甲府へ着いた頃には目が腫れる程

ぶざまな姿になっていた。

そんな利かん坊の男の子のような私に

いつでも優しい言葉をかけてくれた母。


衣裳もすべて母が選んでくれた。

母は乳ガンで45歳で逝き、

18歳の私は精神的ショックを受け、

声も出ないほど落ち込み

一時、悪態どころか

言葉が出てこないほどになった。

あれから35年がたった。早い。


今の時代の医療があったらなぁ。

そんなことを考える母の日の今朝、

甲府の兄から珍しく電話が入った。

甥の結婚式の打合せのための連絡が

目的だったが、まさに昨日、

友達のお父さんが亡くなったと聞き、

いよいよ我々の年代が親を見送る立場に

世代交代してきたと悟った。


少子化の問題が日本中ニュースで

溢れかえる現在。

私は歌手という職業柄と実母がいないのと、

各地への巡業が激しい時代背景が重なり、

結婚はおろか、とても子供を持てる状況には

至らなかった。

当時は歌手をやめるか結婚するかの

2つに1つの選択しかなかった。

今は本当に良い時代になった。


少しずつ変わる時代の中、

ご縁に恵まれ結婚した。

12年前の39歳の時だったが

今後の年齢と経済面を考えると

改めて子供は持たないことに決めて

今に至る。

ここ数年、子育て支援をはじめ

近所の通学路で旗振りもと考え

情報を少しずつ集めている中、なんと、

突然に子供と拘わっていく運びに

流れが変化した。人生はわからない。

1989年18歳の頃、歌唱後のサイン会。

子供は大好きで、

ついついイタズラをけしかけてしまう😁

私の今の道はもともと母がひいてくれた道。

命がなくなる直前まで応援してくれた。

あれから35年。母の年齢を超えて8年。

母にはなれなかったが

社会のお役にたてる側にまわるよう、

歌を唄いながら、自分なりに頑張りたい。

みんなに受けた恩は忘れない。


仕事も結婚も子育ても、

掴みたくても掴めなかった人たちの分まで

あなたは全部掴みなさい。

と若者たちには伝えていきたい。

天気が悪くてもモリモリ食べて

栄養補給💪

明るく元気に頑張ろ~👍️


全国各地のお母さまの皆さま、

日頃からお疲れさまです😌

私もお世話になっている

お母さん達。

感謝しています。

MARIKO


汗水ながして真面目に働く甲府の父にだって

すご~く感謝していますよ。

お互い親を大事にしましょうね。