言葉の捉え方 | 脊髄腫瘍と暮らす生活

脊髄腫瘍と暮らす生活

2009年12月に頸髄髄内腫瘍の摘出手術を受けました。
手術前・入院・退院後の生活を書いています。

自分の病気が発覚する前と、後では、「障がい者」という言葉の捉え方が変化したような気がします。



私は4年程前から、様々な障がいを抱える方たちをサポートする会社の事務員をしています。

今の会社に転職した頃も、「障がい者」という言葉についていろいろ考えたような気がします。



脊髄を切り開いて、腫瘍を摘出した直後、私の両足の感覚は麻痺していて、一人で立つことが出来ませんでした。

数日、車椅子や歩行器のお世話になり、看護師さんに付き添ってもらい、トイレに行かなければなりませんでした。

一人で自分のことができない、という情けない気持ちにもなりました。

その後、数日で歩行できるようになり、今では車の運転も問題ありません。



麻痺が完治した訳ではありません。両足はいつも痺れているし、下半身の触覚は鈍く、ビニールのスリッパはすぐに脱げてしまいます。冷たい風に吹かれれば、足首と膝の関節は凍ったように固まってしまうし、歩行はできるけど、周りを歩く他の人達より、ずっとゆっくりです。


でも、歩けるし、車でどこにだって行ける。新幹線で東京の病院に通院できています。



どこからが「障がい者」?


法律的に考えれば、障害手帳を持っていれば、そうなのかな。



でも、そういう意味じゃなくて…



ひとくくりじゃないんだ、という気持ちがあります。


ずいぶん前に、

「障がい者」っていうのは、その人本人に障害があるのではなく、その人が生活していく上で様々な(支障)障害がある、ということなんだ。

って、誰かがテレビで言ってたのを聞いたことがあります。



その時は、「ずいぶん無理に理由付けしたもんだな」と感じました。すごい後付け感があったし、そこまでして「障がい者」って言葉を深く掘り下げなくたっていいだろ、って思いました。その人は、「障がい者と呼ばれる人達が悪い訳じゃない」って言いたかったみたいなのですが…

当たり前のことですね。


「生活していく上で支障がある」ってことでいうと、私も細々あります。


ちょっと情けないのが、

和式のトイレでしゃがんでると足の感覚が鈍いせいか、足がどんどん外に滑って開いていってしまいます。手すりのあるトイレだと助かります。



大したことじゃないけど、トイレ事情は重要です。



…で、これって、私、「障がい者」なの?



「下肢の感覚麻痺で和式のトイレが苦手な私」だと思う。


もちろん、様々な病気や症状を抱えていても、その前にその人個人であることは言うまでもありません。



例えば、歩行が困難な人達も、様々な理由で、様々な症状で、って全員それぞれだと思うのです。


そして、それはその人のほんの一部にすぎない。

なんで、その人の一部の症状を取り出して「障がい者」っていうグループにしちゃうのかな、と思ってしまうのです。




便宜上、必要な言葉なのかな?



この記事は、少し前に下書きをして、公開するのをためらっていたものです。

今日、ある方のブログの記事を読んで、公開してみようかな、と思いました。