不死身の話 第五回 ⑵ | 是日々神経衰弱なり

学校から帰るとあたしの部屋で飼っている犬のチルがいない。
チルは?チルはどこいったん?と父に問う。

「チルはねえ、私の友だちの岡田さんに貰ってもらったよ。チルは岡田さんになついていたし、チルもその方が幸せだから」

ひどい!あたしになついていなかったとはいえ、母があたしのためにと買ってくれた犬なのに。

「いやあミッチがね、犬の毛が抜けて掃除も大変だし、毛を吸って体に良くないと言うのだよ」とにやけ顔の父。

「ミッチって誰?」

「うちのミッチじゃないか」
 
ミッチ。継母のことだ!あいつの仕業か。怒りのあまりに鳥肌が立った。犬の毛ですって?そんなもの、この家に初めて来たときから分かっていたはず。しかもチルはあたしの部屋で飼っていたわけだし、あたしの犬なのに、あたしに何の相談もないままに無断でよそへやる手筈を整えるなんて。しかもあたしの留守に抜き打ちで連れ出すなんて、いくらなんでもそんな勝手なことをする権利がパパとあの人にあんの?

いつだったか、こんなこともあった。ある日突然あたしの母が揃えていた螺鈿の美しい家具がすべて消えてなくなり、全部が真新しい家具に入れ替わっていたのですごく驚いた。母の家具はすべて自分の友人に譲ったと、事後承諾のかたちで継母が直接あたしに教えてくれたこともありました。母の家具はお値打ちもので、芸術的な価値のあるものでもあったのになあと残念に思ったが、「細工物の誂え家具の一式だから、相手がとても喜んでいたわよ」と継母が満足気に言うので、あたしに一言もなかったのは少し寂しく思ったが、喜んでもらったのか、じゃあ良かったと、無理やり自分を納得させ微笑んだ。

だけど、今度はそういう訳にはいかなかった。あたしの唯一の慰めである愛犬チルを捨てられたのだから。あたしは彼らの仕業が悔しくて仕方がなく、二日間号泣し続けた。父に大抗議もした。でもすぐに諦めた。父はあたしに責められ、泣きつかれたからといって、犬を取り戻してくれる人ではないことはあたしが一番よく知っている。それに、60歳を目前にした男が中学生になる娘に新妻のことを「ミッチが……」と、そう呼んだのだ。それを聞いた時点でなじる気も失せていた。ミッチのことしか頭にない父に、これ以上何を言っても意味はないことを、これまでの父との関わりあいで分かっていたからだ。
 
翌日、あたしは無念に思い、そのことをアッコに告げると、アッコは一緒になって怒ってくれ、慰めてくれたのだった。アッコの家にも犬がいて、やはりアッコにとっても愛犬が家の中で唯一の安らぎだったからだ。

「おっちゃんひどいわ!おばちゃんも調子に乗り過ぎやわ!やり方が汚い!!」
 
アッコは、あたしが言いたくても言えなかった言葉をあたしの代わりに次々と言ってくれたので、少しだけ気が晴れた。

その直後、空っぽになったまま、あたしの部屋に放置されたままのチルのゲージに残された毛布を見ていると、チルは本当に岡田さんの家にもらわれて行ったのか急に不安になった。


■芝居。罠。ディスコ
 
あの日を境に、三階からは父と継母の痴話喧嘩が遠慮なく垂れ流されるようになった。内容はいつも同じで、あたしのことだった。やれ電話が長いだの、お風呂に入るのが遅いだの、食べ終わった食器を戻していないだのと、ほとんど言いがかりに近かった。
 
継母がヒステリーを起こし、そして父が宥める。それは毎晩同じような時間帯に始まり、だいたい決まった時間に終了するので、この時期はなにか、開演中の舞台裏で、開幕から終演までを聞いているような、大道具さんかなにかになって、芝居小屋に暮らしているかのような日々でした。
 
そのやりとりを毎日聞きながら、自分ら、いい歳をしたもの同士が勝手にひっついて、好きなように結婚もして、それなのに、いまさらぐずぐずとあたしへの不満をあげ連ねているけど、あたしがあんたらに何をしたっていうねんな!一体あたしに何の罪があるっていうのよ!心の中で何度も叫んだ。その諍いが始まると嫌で嫌で仕方がなかった。聞くに耐えられず夜の外出が増えた。街はあたしに優しくしてくれ、ネオンの光は暗い気持ちを洗い流してくれるようだった。家ではどこにも居場所のないあたしだが、夜の街でのあたしは、徐々に歓迎される存在になっていくのを実感していた。
 
1983年。カフェバー全盛の時代。カフェバー店内のモニターではMTVのミュージックビデオが流れていて、「レッツ・ダンス」とか、「ビリージーン」「スリラー」「カーマは気まぐれ」などがBGMにかかっていた。
 
あたしは12歳の時に初めてミナミのディスコに遊びに行った。確か小学校6年生の冬休みだったと思う。自分的にはローラーディスコ場の延長のようなものだった。その頃になると洋楽に興味をもちだしていたので、ディスコ通いの主な理由はそれだった。何がきっかけだったか、あまり確かな記憶はないが、ディスコへは友だちのお姉さんである三歳上の徳田先輩という、かなり美形な先輩に連れて行ってもらったのが初めてだったような気がする。初めに行った店はどこだっただろうか、倉庫クラブ、ジュビレーション、マハラジャ、ジジック、葡萄屋、ダンバ363、キサナドゥ、バンブーハウス、アニーズ・インだったかな。

初めて入ったディスコの店内は猥雑で、けぶるような妖しい光に包まれていた。中学校に入ると父の無関心も手伝い、ディスコ通いの回数が増えた。ディスコでは「アース・ウィンド・アンド・ファイアー」、「クール・アンド・ザ・ギャング」などソウルな音楽に身をまかせた。チークタイムには桑名正博や来生たかお、安全地帯など日本の曲もかかっていた。

夜遊びは、実に楽しかった。毎日のように通ううちに顔見知りができる。そうすると、つい楽しくてラストになるまでいてしまい、帰宅が朝方になってしまうのだった。しかし、毎朝7時になると父が犬のチルの散歩のため、あたしの部屋にいるチルを迎えにやって来る。犬のケージがあたしの部屋にあるためだ。だから、家を抜け出して夜遊びをしても、絶対に朝の7時までには戻って、ベッドの中で狸寝入りをしていなければならなかった。父の毎日は、何時に起きて、何時に食べて、何時にお風呂に入って、何時に寝る、と判で押したように規則正しい。犬がいた頃は、こうやって朝帰りを誤魔化す必要があった。


■夜の喫茶店
 
ある土曜日の夕暮れ、学校をサボって何もすることがなく、一人でぶらぶらと心斎橋筋を歩いていると、二人連れの男が声をかけてきた。一人は火野正平そっくりのおじさんで、もう一人は若くて長身のモデル風の男。

「どこかのモデル事務所に所属してるん?」

「(またか)いいえ」

「じゃあ少し喫茶店でお茶でも飲もうよ」

「いや、結構です」
 
火野正平似は、先へ行こうとするあたしを遮って、「怖がらなくていいって。今から車を取って来るから、それまでちょっとだけこの背の高い人と待っていて」と言った。

言われた通りに少し待ってみると、現れたのは白いポルシェターボのカブリオレだった。ピッカピカの新車。今みたいに外車も、中古車産業も盛んでない時代にとても珍しい車。少し迷ったけれど、その素敵なやつの魅力に負けて乗り込んだ。車内のBGMは稲垣潤一の「ドラマティック・レイン」だった。
 
到着したのは喫茶店にしては少し暗めで、品の良い高級そうなお店だった。広い店内にはふかふかの絨毯が敷き詰められ、白と薄いピンクで統一された内装。火野正平似は、なにかアンケート用紙みたいなものを持って来て、ここに名前と電話番号を書いてと言ってきた。あたしは何も考えずに素直に書いて、彼らと洋服の話や世間話をしながら楽しくお茶をご馳走になり、約束通り、一時間後には会った場所まで送ってもらい、その日は終わった。
 
週明けの月曜日の夜、自分の部屋にいると、突然あたし専用の電話が鳴った。電話に出たら、先週土曜日に会ってお茶を飲んだ火野正平似で、何で来ないのかってものすごく怒っている。約束なんてしてないのに……何だかよく分からないが、今すぐこの前の店に来いと責め立てられ、訳も分からないままそこへ行ってみると、昼間とはうってかわり、蝶ネクタイをしたピアニストがグランドピアノに鎮座し、ピロピロピロと、心を揺らすようなロマンチックな音を奏で、上品な店内には、色とりどりの高級そうな洋服で着飾ったきれいな女の人たちがお金持ちそうな紳士らと談笑している。急かされるようにしてコートを店の男の人に預け、バッグをレジに預け、あれよあれよと言う間に知らないおじさんの席に案内され、なぜかそのおじさんの隣に座ってしばらくジュースを飲んでいました。それからかわるがわる、二、三人のおじさんの席で同じようなことが繰り返された。どれくらい経った後か、ポルシェの人が呼んでいる、と耳打ちされて席を立った。
 
出口に案内されると、そこには火野正平似がいて、「おつかれさん。もう帰ってええで」と笑顔で言われ、コートを返してくれた。バッグを返してもらう際に、レジのおばさんから白い封筒が手渡された。なんだろうと中身を見るとお金が入っていて、驚くことに5万円近くも入っていたのだ。

マジで?
 
その夜は、興奮してあまり眠れなかった。翌日は遅刻もせず朝から真面目に学校へ行き、授業中ずっと計算していた。
 
よんまんはっせんえん×30日=えええええ~!

あそこへは今日も行こう。何でも買えるやん!なんでも自由にお腹いっぱい食べられる!少し希望みたいなものが見えた。学校にいても、欲しい洋服と、食べたい物のことで頭が一杯で、もうそのことしか考えられなかった。
 
父が再婚してからというもの、夕食代をもらえなくなった。まだ中学生なのに自分の家にいるのも肩身が狭くて、貧乏ではない実家にいるのに満足に食事もできず、水を飲むことさえままならぬ毎日だったので、自分の自由になるお金を手にして歓喜した。あたしは笑顔で自分の顔を手鏡に映し、ビューラーで思い切り睫毛を上げた。
 
『夜の喫茶店』では恵子ちゃんと呼ばれた。歳は20歳と言っていたと思う。その店が、本当は喫茶店でないことにはすぐに気が付いた。夕方から開店するうす暗いこの店は、大人たちがお酒を飲んでお喋りをするところでした。上品で美しいピアノの音色に心地よい喧噪。広々とした洗練された店内、美しいグラス、高級なお酒、様々な香水の匂い。別世界だった。そこは毎晩エレガントな淑女と立派な紳士、筋の良いボンボンたちで賑わっていた。
 あるお客さんとは、あたしの自宅が会社に近いという話題から仲良くなり、ヨーロッパ旅行のお土産にと、毛皮のコートと、素晴らしいボトルに入ったニナリッチの香水を頂いた。
 
当然、そのお客さんはあたしを中学生だとは思っていない。一度、待ち合わせして買い物に連れて行ってもらったところ、素晴らしい洋服をたくさんプレゼントしてもらった。その方は壮年の実業家で、40歳代半ばにさしかかるかどうかというところだったと記憶するが、それにしても13歳のあたしからしたらおじさんである。
 
それから、夜の喫茶店だと教えられていた大人の喫茶店には、行ったり、行かなかったりになった。店の人から毎日「今日も来て」、と電話がかかってきて詰め寄られるのも煩わしかったし、よく知らないおじさんとご飯を食べに行くのも邪魔くさかったし、少し面倒に思い始めていたからだ。お腹が空いたり、欲しいものがあったり、お金がなくなったりして必要になればまた行く、という感じにとどまった。
 
ところが、そうやって1ヶ月ほど平和にやっていたのに、事件は突然に起きた。帰宅すると父が二階の応接間にいて、何事か、珍しくあたしを呼んだ。

「今日、○○という男からおまえに電話があったが、その男を知っているのか」
 あ!あのお客さんや。

「いや、知らん」

「あの野郎、さっきお前の番号に電話してきて、ケイコさんだかキョウコさんだか、うちにはそんな名前の娘はおらんし、ここには中学生の娘しかいないと言ったら、そんなはずはない、なんて言っておった」
 
最悪。あのお客さんがあたしの留守に、うちに電話してきていたのだった。そしてきっと、運悪く父が出たのだろうな。あーあ、さぞや驚いたことだろう。申し訳なく感じた。これは言い訳などではなくて、あたしは本当に、到底中学生に見えなかったのだから。その人は善良な人で、とても紳士でした。あたしとは何の間違いも起こしていません。
 独身で、若くして奥さんを亡くしていたと言っていたから、逆に疚しいところは何もなく、堂々とあたしの実家へ電話をしてきて、父にあたしへの取り次ぎを頼んだのだろう。その人は何も悪いことをしていないのに、父からとばっちりを受けて、気の毒だった。いい人だったのに、悪いことをしたと胸が痛んだ。
 
次の日の夜、店に電話をしたら、お客さんから事の顚末が伝わっていたようで、ポルシェくんはとても動揺している様子だった。急のことであたしもとてもうろたえた。その日以来、『夜の喫茶店』に食費や遊興費を稼ぎに行けなくなってしまったのだった。

■ネオン街のスター
 
愛犬チルがいなくなり、昼夜問わずに街を出歩くようになると、学校以外の大人の友だちがたくさんできた。この頃になると学校へはほとんど行かなくなっていた。父があたしの学校の出席や在宅をまったく気に留めなくなり、あたしも家にいることがほとんどなくなっていた。ジジック、マハラジャ、ジュビレーション、アマゾンクラブ、葡萄屋、そしてパトーナなど、どこのディスコでも中学生ながらいっぱしの『顔』になり、あたしが来ているかどうか、常連客らから店に問い合わせの電話が入るようになった頃には、どの店にもフリー(無料招待。いわゆる顔パス)で入れてもらえるようになっていて、すべての店でVIP待遇だった。
 
あたしは中学生だったから入場料金も毎晩だとバカにならなかったので、フリーで入れてもらえるようになったのは助かった。ディスコへはたいがいひとりで行った。その前は(顔パスになる前は)、男の子にナンパされて行っていたこともあった。すると、男の子たちに奢ってはもらえるが、その男の子たちを構わなくてはならないのがあたしには苦痛だった。それに、マハラジャには、DJとか、好きな男の子もいたしね。NOVA21グループ(マハラジャ系列店)では大渕社長をはじめ、皆には親切にしてもらっていたなあ。
 
マハラジャに行きはじめた頃、ボーイをやっていたタカオは当時19歳で、あたしのチケットがなくなったのを見ると、手招きであたしを隅のほうまで呼び出す。タカオは、「マリカ、これもっとき」と言って、時々お客が余らせて置いて帰ったチケットをこっそりくれたりした。初めの頃はフリーじゃなかったし、なるべくひとりでディスコに行っていたので、お金もなかったし、タカオのくれるチケットは助かった。そのチケットを貯め、コーラを飲んだり、寿司バーで食べたりして空腹を満たすのに役立てた。

ひとたびパトーナに入れば、案内された席に着くまでに、うんと歳上の友だちも、顔見知りになって仲良くなった常連客も、お店の従業員も皆があたしを知っていて、声をかけてきてくれた。

「マリカ~、後でこっちおいでや!一緒に飲も」

「あっ、マリカやん。今来たん?外にご飯食べに行かへん?」

「お~、マリカ~」
 
あたしはその掛け声に応え、小さく手を振って挨拶する。案内されるVIPルームでは、次々に男の人があたしのいる席までやってきて、豪勢なシャンパンを抜いた。ディスコにいれば「お腹が空いた」なんて、思ったこともなければ言ったこともなかった。当時の男の子は女の子に対するマナーを知っていたので、「ここはビーフストロガノフがすごく美味しいよ、食べてみる?」などとなにがしか聞いてくれ、あたしは、それを食べたければ、「うん」と頷くだけでよかった。あたしは甘えたり、要求したりできない質なので、男の人たちがすすんで御馳走してくれるのは嬉しかったし、助かった。
 
家にいるのが辛くて夜遊びをするようになったが、友だちができはじめてからはすっかりディスコが自分の家(居場所)になっていた。ディスコに行けば食べられたし、嫌なことも忘れられて、淋しくなかった。あの頃のディスコでも、10代でも17歳とか、高校生はたまにいたが、あたしは13歳と一番若くて物珍しかったし、可愛いとか、べっぴんと言われてもてはやされ、チヤホヤされるのが嬉しかった。誰もがあたしに注目し、興味を持ち、関心を引きたがった。みんなのオモチャで、アイドルだった。大人たちは競うようにあたしのご機嫌を取りにきたし、常に注目され、対等以上に扱われるのが気持ち良かった。
 
しかし、実際には食べるものにも困る相当に悲惨な立場の子供だったのだが、ミラーボールやネオンライトに助けられたおかげで、なんとか栄養は取れていた。

毎晩、家を抜け出すまではヒヤヒヤだが、一歩家を出ると、途端に楽に息ができるような開放感を得た。父と継母の声を聞かなくてよかったからだ。
 
ネオンを浴びると人があたしを見る。ネオンの光はあたしにとってスポットライトで、太陽の光よりも輝かせてくれた。太陽は嘘つきで、あたしに何もしてくれなかった。太陽は、なんだか押し付けがましくて偽善っぽい。今でも薄曇りの優しい光のほうが、安心させてくれて好きだ。


■蜂
 
毎朝のように朝帰りをやりだすと、当然学校も昼からか、行かないか、だ。そしてまた夜が来ると迷わずディスコへ向かう。愛犬チルがいなくなってから、父があたしの部屋に来ることも皆無になったので、別に何時に家に帰ろうが、昼まで寝ていようが、休もうが、あたしの部屋の前を誰かが通りがかった際に自室から出なければ、いるかいないかさえ、父にも誰にも知られることはなかった。朝帰りのことは薄々知っていたかも知れないが、知らないことにしていたと思う。
 
父親と継母と同じ家にいても、あたしだけは人が誰も来ない屋根裏部屋に巣を作って暮らす蜂のような存在だと感じていた。いるのは知っているが、厄介な存在。いてもさほど困りはしないが、視界に入ると目障りで、普段は見て見ぬ振りをする。折りをみて、できたら駆除したい。そういう邪魔な存在に近かったと思う。
 
家人は中学生のあたしが同じ家のそこに存在することを知りながら、何を食べているのか、生きているのかどうかさえ気にもしないのだし。トイレも洗面所も各階にあったから顔を合わす機会も、必要もなかった。お互いに接触しなければならない理由もなにひとつなかった。出入りも自室の窓を使っていたし、本当に蜂だ。餌も自分で取りに行って食べていたしね。


■たえちゃん
 
罪悪感なく学校をサボり始めたころ、昼間は当時流行っていた、梅田や天下茶屋のローラーディスコに何をするでもなく、たまにふらりと遊びに行っていた。平日の昼間のローラーディスコは空いていたが、ときたまあたしのようにひとりでやってくる女の子がもうひとりいた。長身で、色白で、さらっさらのワンレングスの茶色の髪に茶色の瞳。ワイズやニコルをセンスよく着て、長い髪をなびかせ、昼間からミラーボールの回転する薄暗いローラーディスコ場をひときわ輝かせていた女の子。あたしたちはどちらからともなく近づき、あっと言う間にうちとけた。
 
その子の名は多恵ちゃんといって、住之江から来ていると八重歯を見せて笑った。これが唯一無二の親友、多恵ちゃんとの出会いでした。多恵ちゃんのお父さんは広域暴力団の下部組織の親分で、多恵ちゃんのお母さんとは再婚だ。前妻との間に一男一女がいて、多恵ちゃんにも異母兄姉となる人たちがいたが、別の家に住んでいた。多恵ちゃんのお母さんは、一年前に蒸発していなくなったと言っていた。多恵ちゃんは、お父さんと妹との三人暮らしだった。
 多恵ちゃんは、いなくなったお母さんの代わりに家のことをすべてこなし、妹の世話もしていた。学校は割合マジメに行っているが、ごくたまに平日にサボってローラーディスコへ息抜きにやって来ているという。私たちはお互いの匂いを察知し合った。多恵ちゃんとは、お父さんの若い衆が指先を刃物で切り落とす時のやり方なんぞを教えてもらったりするうちにすごく仲良くなった。アッコとは、あたしの家に遊びに来ていて兄貴に前歯を折られた時からなんとなく遠ざかっていた。
 
それ以来、苦難の数々の中にあって強く結ばれていたあたしたちの深い友情は8年間続いた。あたしが21歳で彼女が23歳の時、あたしと彼女の二人で行ったニューヨーク・マンハッタンで、新聞に取沙汰されるような事件に巻き込まれ、ほうほうの体で日本へ戻った翌々日に彼女が自殺をしてしまうその日まで。