コロナで 「分断」 という言葉を耳にしたり、目に留まったので

私の思うところを記しておこうと思います。

 

私は 「はじめからそうであったものが顕在化した」 と思っています。

「分断」 という状況の変化ではなく、顕在化しただけ。

 

で、「分断」 というけれど、

そこには全体とか一体、といった幻想が前提であるから

「分断」 という捉え方になると思うわけです。

 

 

前の記事で、「全体=結果」

全体は結果でしかない。と書きました。

 

「結果」 として生きているからそのように感じるわけです。

 

 

 

ひとりひとりが心に従い

心動くことに真っ直ぐ存在すれば、

(心動くことはひとそれぞれ違うから)

 

ひとりひとりの存在が 「そうである」 なら

全体は 「ただそうである」 のですから。

 

全体が先ではないのです。

全体は結果でしかない。

 

「結果」 として生きるから苦しくなるのです。

 

「全体=結果」は自分ではないものも含みますから。

 

 

 

では、世間でいわれる 「分断」 は何を示しているかというと

 

「個の内側の分裂状態」 が明快に現れた状態だと思います。

 

 

全体という概念を脇に置いて、というか捨てて。

 

バラバラでいい。

個々が最適化する。

 

とします。

 

 

すると、「分断」として見えていたものが、

 

全体が分かれた(社会が分断した)のではなく

個の内側が分裂していた、最適化されていない

 

という風にみえてきます。

 

 

ひとつ例を挙げますと、

わたしの血縁者の口から

「オミクロン」

という言葉が発語され時

明らかに、「本来のこのひとのモノではない」と

強い違和感を覚えたのです。

本人と発せられた言葉の間に、親和性を感じなかったのです。

 

 

と、同時に「オミクロン」の言葉の裏に

このひとが、「本来のこのひと」 として

統合される何かがあるのを感じたのです。

 

 

このひとが、「本来のこのひと」と

親和性のない何かを保持しているということを顕在化させるような。

 

そしてそれを最適化して

「本当の自分」を 知る ・ 思い出す 機会が巡ってきているような感じが。

 

 

 

 

「個の内側の分裂状態」 を認識し、在り方を示す。

 

在り方とは、

 

心動いた方に舵を切る、新しく選択する。=自分の再認識

 

 

 

世間で言うところの 「分断」 を私は

 「個々人のスタートライン」 とか

 「発芽のタイミング」 と捉えます。

 

外界 ・ 全体という幻想 ・ 他人 に預けていた自分の一部を呼び戻して

 

個(本当の自分)として歩みだす。

 

 

「発芽のタイミング」 とは 

 

「新芽」 として、次のステージの原因として生き始めることです。

 

 

そして。

 

理想はそれぞれにあり。統合はない。  

 

です。