ゆるっとつきぬけよっ♪
未来を咲かせるストレスケアスピーカー、森 昭子です。




心が弱い、と悩みすぎてしまう前にカラダからアプローチ。
カラダがあって本当によかった音譜
生まれたころの柔らかさに戻って本来の自分を生きましょ







小さいころの自分のなかに未来を生きるヒントがある、という話をよく聞きます。
私もアナウンサーになるきっかけをもらったのは、小学校1年生の時でした。






クラスの音読大会で1位になったことがその後の私の生活習慣を変えました。

もう退職するという担任の先生が、赤い画用紙に墨で賞状を書いてくれたのが人生初の賞状!



赤い賞状を持って走って家に帰ると、おじいちゃんが外旋塔のように私の手を握ってぐるぐる回してくれて、

その日から私は毎晩、晩御飯が終わると、家族の前で教科書を音読するのが日課になりました。



アナウンサーになるには都会の有名な英米文学部に行かなきゃいけない!と思い込んでいた私。

でもね、四国の地方都市の三世代家族だった私は、家族からは猛反対を受けました。



あきちゃんの時代で先祖代々の田畑を売って家族みんなが豆腐ばっかり食べる生活になってもいいの!?



でも、でも  やっぱりアナウンサーになりたいっ!!

四国から出れず、当時アイドルだった堀ちえみをテレビで見ながら、



同じ人間なのに、好きなことを仕事にできる人とできない人がいるなんて納得できない!



私は一代決心をしました。今でいうところの「自分との約束」ですね。



地元の大学3年生のとき、たくさんのアナウンサーが誕生している大阪のアナウンス学校に行くことを決めました。

いわゆるダブルスクール。それは経済的にも体力的にもかなりハードなこと。

アルバイトしながら大学と専門学校を高松と大阪で行き来する生活。フェリーで片道4時間というときも。

瀬戸大橋が開通した4年生からは、夕方、大学が終わると新幹線で大阪へ。真夜中に帰ってきました。



四国の人間にとって海を渡るというのは、心のハードル高し。えらい遠くまで出かけてる気分でした。

そして、アナウンス学校でも田舎者の私が良かれと思うことがただの自己満足だったりして、いろいろ洗礼を受けました。



そして小さい頃から憧れた局アナに本当になれたのだけれど、実は初めのうちは全て第一次試験も通らず、全て落ちまくっていたのです。



そんな私が、あることをきっかけに内定通知が続くようになりました。

それは苦しみの中から自分で発見したミラクル。



このお話は次回に~

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