愚痴です。
イライラしているので、書く事で落ち着こうとしています
私は甘える人が嫌いです
なんていう自分もかなりあまちゃんではあるのですが、
甘えるのは家族に対してのみで他人に甘えた事はありません
海外に暮らしていて大変な事はたくさんあります
小さな子どもがいる家庭では、近くに家族や親戚がいなければ、
海外であろうがなかろうが、大変な事は多々あるわけですが、
それが海外になると尚更、問題が増えます
もちろん、小さな子どもの有無にかかわらず大変な事は沢山あります
それは、言語、習慣、友達を始めとしたソフトなパートだけではなく、
税金、法的権利、外国人/移民の立場の弱さ、と言ったハードな部分まで、
気付かない所までも、その不便さは浸透しています
何でもないはずの事でも、苦労の連続だったりします
余談:裏に住むのは84歳のドイツ人のおばあちゃん。
1956年にここに(同じ家)越して来た、と言うから
ここに住んで実に半世紀が過ぎています。
ご主人の死や色々な事情で(アメリカにありがち)なんたらかんたらで、
やっと市民権を得て、心の平穏が訪れたのは、たったの2年前だそう。
つまり、82歳までビザ云々に翻弄されるという人生。
それも、ここでは、まったく珍しい話ではありません
移民は(主に子どもの為に)、市民権等の人権を獲得するために、
人生をかけて、計画を立て、慎重に、ステップを踏んで行きます
その中でも、私は人に甘えた事はありません
(家族には甘えますが)
逆に言えば、甘え下手なのです
甘え上手な人も沢山います
違う言葉で言うと、「うま〜く人を使う」人です
はっきりいって、尊敬します
人にものを頼む時、頼んでいるのに、その人に嫌な思いをさせる事なく
むしろ楽しかった経験にまでもしてしまう
それは、立派な技術のひとつでしょう
人間性のクオリティーとも言えます
ただ、世の中のあまちゃんはむしろ、甘えベタが多いのです
物を頼まれた方は「使われた」感がむんむんで、
なるべく将来関わらないようにしよう、と心に決めるのです
あまちゃんにそのつもりが有るのか無いのか
気付いているのか気付いていないのか、はもう既に問題ではありません
一般的解釈で、日本人のあまちゃん度が高いのは、
日本人の依存体質を議論する日本人論『甘えの構造』でも知られています
国内でもあまちゃんの日本人
海外では、一転して肝を据えて独立するべきところ、
そんな事になるわけもなく、沢山の人が、更に輪のかかった
「スーパーあまちゃん」にパワーアップしているのです
良く有るのが:
車がない、または車が運転出来ないが
バスに乗ったりしたくない、車に乗せて欲しい
引越したばかりで物がないので譲って欲しい、
または引越するので物を処分したいから買って欲しい(引き取って欲しいではなく)
海外で右も左も分からない状態なので、情報を根掘り葉掘り聞きたい
英語が分からないのでフォローして欲しい
いいんです、少し甘えてもらっても
でも、やっぱりそれは一方通行ではなく、交互作用でなければ成り立ちません
それは、何でも同じ事ではないでしょうか
家電、家具を譲ってもらった→何かのお返し(煎餅等でも)
情報を沢山もらった→お家に紅茶等でおもてなしする
車を出してどこかに連れて行ってもらった、引越を手伝ってもらった→夕食等おもてなし
何でも構いませんが、「感謝」していることを
態度なり、言葉なり、物でなり、表す事はとても重要です
こちらもボランティアでやっているわけでもなければ、
マザーテレサのように、人を救う事に人生を捧げているわけでもないので、
こちらだって、何かを得ているという感情がわかない限り
「損している」「使われてる」という感が強くなるのは当たり前の事です
「フレンドシップ(友情)」だっていいのです、心に残る何かを。
私は日本人なので、日本人のあまちゃんに沢山遭遇して来ました
(基本的にどの国の人も同郷の人にしか甘えないとおもいます)
度重なる「使われた」経験と友人の「使われた」体験談で
私はどんどん同郷の人とは疎遠になってきました
周りからは、「日本人の友達がいない」のを不思議がられる事もありますし、
哀れがられる事も有りますし、子どもの言語の発達を考えると、
大変損しているのかも、と思う事も有ります。
それでも、たま〜に同郷のあまちゃんに出会う事があると、
また、うんざりしてしまうのです
それが、今回のブログのきっかけ
今回のいきさつ:
グループメールをつてに知らない人(日本人)からメールが来ました。
子どもの年歳が近いので遊ばせたいとの事。
特に変な話ではない、と思われるかもしれませんが、実際は変です
見たこともあった事も無い人が、
自己紹介もそこそこに(自分の名前と子どもの年齢のみ)
うちの子と遊ばせたいと言う。
大事な子どもの事だから、友達も学校も他の事も慎重に考えるのは当たり前の事。
「お互い日本人」という共通点だけで、「友達になりたい」というわけにはいきません
この理論から言うと、私は1億2千万人と友達になるべき、という事になります
見た事も聞いた事も無い人と大事な子どもを遊ばせるなら、
少なくとも、細かい自己紹介、子どもの紹介、プレイデートを思ったいきさつ
くらい書いてもらわないと、どうしても疑心暗鬼になってしまいます
それでも、そんな気持ちを抑えつつ、「同郷のよしみで」
日時と2ヶ所の場所の提案をしてみました
すると、A子さんは、
「車の運転が出来ないから、近くの公園まできてほしい」といいました
どこへでも15−20分あれば行けてしまう、こんな小さい町で
その公園は、私の家から30分以上かかる所にありました
私は町に近い部分に住んでいるので、A子さんが辺鄙な所に住んでいるのです
遠くまで来てもらって申し訳ないが。。。云々言ってくれればまだましだったのに、
A子さんは、いつもやっているように、既にとても友達みたいに気軽に頼み、
「何時に来れますか?」と話を既に進めている様子
「やっぱりあまちゃんだったか。。。」と最初のメールの悪い印象に納得。
スーパーあまちゃんは、期待を裏切ることなく悪化するのみで良くなる事は有りません
これで、向こうの言い分を聞いてしまうと、次々とリクエストが入るのは
目に見えていたので、なんだかんだ理由を付けてお断りしました
実に3年ぶりに出会った、スーパーあまちゃんのA子さんでした
A子さんが甘えるのは、日本人だけで、他の人種には甘えたりしません。
自己紹介もそこそこに、会いたいと執拗にメールしたり、
「車の運転が出来ないので」遠くまで来てくれと、依頼したりするのは
相手が日本人の場合だけです。下手すると、こうやって、自分の家族によりも
知り合いの方にもっと「甘えて」いるかもしれません
(実際、A子さんの場合も、この日は休日だったので、家にご主人が居るのですが、
ご主人に甘えるのではなく、見知らぬ他人の私にお願いごとをしたのでした)
自分が海外に住んでいて大変なんだということは、
日本人であれば理解してくれて、助けてもくれるであろう、いう
「甘えの思考」に基づいた「甘えの行動」なのです
しかし、甘えも「甘え上手」であれば、またはそれが「相互的」なものであれば
いくらでも、「favo(u)r」(助けたり助けられたり)できたりするものです
アメリカ人はとてもフレンドリーです
何でも、もちつもたれつつ、と理解している大部分の人は
何でも頼めるし、何でも頼んできます
ただ、ここで気をつけたいのは、フレンドリー=お互いに甘える事、ではないことです
一方的に「favo(u)r」を要求をしたり、一方的にお世話をしたりは出来ません
また、「初めまして」から「favo(u)r 」をお願いする事も出来ません
それは、ある程度、人間関係を気付いてからです
お願い出来る事の程度と友情関係は比例しています
(これは、日本でも同じ事だと思いますが)
それは、暗黙のルールです
ルールを守った「甘え上手」になって下さい