空港ではきたときと同じ身のこなしのいいオフィシャルの男が現れて我々の荷物をひっつかんで出国と搭乗の手続きを済ませてくれた。
ロビーのベンチで荷物の整理を始めると、オフィシャルは「もういいかい」と尋ねた。
「サンキュー。喫煙所はある?」と僕が訊くと、着いてこいと合図して歩き出す。
ターミナルの端に、中毒患者向けの閉鎖病棟みたいな雰囲気の喫煙所があった。
「オーケー、もう分かったよ。ありがとう」と僕が云うと、オフィシャルは首を振って二階へ上がる階段を指した。「この喫煙所は臭いんだ。上へ行こう」
階段を上がるとそこはターミナルの二階の端で、このあたりは使われていないらしく照明は消されていて、不要になったベンチが壁際へ無造作に積み上げられていた。
オフィシャルは手近なソファに腰掛けた。
「下の喫煙所は臭いから、タバコはここで吸えばいいんだ。一本いいかい」
もちろんと答えて僕はマルボロ・ライトを差し出す。火を点けるとふーっと煙を吐き出してオフィシャルは背もたれに沈み込んだ。
僕は隣に腰掛けて、自分のタバコに火を点ける。
真っ暗な窓の外から、ゴォーッと音を立てて中型機が飛び立っていった。
「ドラゴン・エアーだ。知ってるか?」オフィシャルがちらとそちらを見て云った。
「知ってる。香港のエアラインだ」
「その通り」オフィシャルは「オーシャンズ11
」に出てくる爆弾のプロにそっくりの飄々とした雰囲気をもつ男だった。「いまから帰るのか」
そうだと僕は答える。
「バングラデシュはどうだった?」多くのひとがそう訊いた。そしてそのたび僕は少しの戸惑って、それから何事もなかったかのようにこう口にした。
「感銘を受けたよ。特に農村地帯の・・・・」云いかけるとオフィシャルは遮ってタバコをロビーの床で踏み消し、立ち上がった。
「オーケー。タバコを吸いたければまたここへこいよ。ハヴ・ア・ナイス・フライト」
くだらない答えだというわけだ。わかってはいたが的を射た答えなどいまは言葉にすることができない。いまはこのようにでも答え、相手の苛立ちを受けとめるしかない。
誰かに見とがめられたら何と云えばいいのだろうかと考えながら、ターミナルの一番端に見捨てられたようなゲートの暗がりで僕はもう一本タバコを吸った。遠くの方では蛍光灯の下、目当ての飛行機に乗り込む人たちの姿が見えた。
出発まではまだ少し時間がある。
* * * * *
シンガポールのチャンギ空港へ降り立ったときには深夜の2時を回っている。ここで夜を明かさないことには成田へ向かう飛行機がない。7時間のトランジットだ。
ラウンジに入るとT氏は荷物を脇に置いて眠りに落ちた。成田へ着くのは午後3時頃。機内で眠ると時差ボケになると踏んで、ここでの乗り継ぎを利用して寝ておこうという戦術だ。
僕はむしろ機内では起きていても仕方がないとラウンジのテーブルにノートパソコンを広げ、ツアーのレポートを作り始める。
事実だけを、いまは事実だけをあるがままに記録することを意識する。膨大な記録ではあるが簡単な作業だ。「感じたこと」に立ち入ると、途端に迷路に迷い込んでしまう。
チャンギ空港は24時間動いているようではあるが24時間発着のある様子は見えない。
ようやく人が動き始めたのはノートパソコンの充電も切れて、ビュッフェでお粥の朝食を摂りながら「沈黙/アビシニアン
」を読み終えようかという朝の6時頃だった。
シンガポール発のシンガポール航空・成田便は、成田を経由してそのままサンフランシスコへ行ってしまう。
ゲートで出発を待つ人々の顔ぶれは日本人の観光客にアメリカ人のビジネスマン、シンガポール系アメリカ人の親子連れなどで、なんだか朝になったら昨日までいた浅黒い肌をした人々の世界は夢のように消えてしまったとでもいうようだった。
僕は南アジアが思いのほか急速に遠ざかっていくことに焦っていた。
そこで何を見て、何を感じたのか、これでは書き残しでもしておかなければすべてはあっという間に記憶の向こうへ薄れていってしまいそうだ。だが自分の考えていることや、あるいは考えの軌跡をすら言葉にするにはあまりにも時間がない。
飛行機がゆらりと滑走路を離れる。5時間も経てば自分の感覚や感情にはいちいち目をくれてなどいられない生活が再開する。ましてや過ぎた感情や感傷など、どうして思い返し、取り出して見つめ直すことなどできようか。
しかし機内でも言葉が僕に訪れることはなかった。僕は以下の事実に気がついて愕然とする。
僕の言葉は決して僕のものではない。
幼い頃から僕の言葉は僕が自由に使うことができて、そうやって考えたことや感じたことを相手に伝えるものだと教えられた。
それはとても便利な話だし、「伝えること」は多様性を獲得することによって「僕という人間を伝えること」即ち表現へと変化していき、僕に快感と満足感をもたらした。言葉はどこへ行くにも僕と一緒について回る、掛け替えのない相棒だった。
その相棒が口を閉ざしている。バングラデシュで何を見て、何を感じたのかという僕の問いに対して、僕自身の言葉が沈黙を守っているのだ。
だがその理由は、その事態そのものよりも遥かに深刻だ。
車がダッカ市内の街角を曲がると、そこに突然「貧しい人々」がいた。
Aさんは彼らのことを"poor people"と呼ぶ。彼は頻繁に"poor"という言葉を使うのだった。
知らない町でその一帯の「雰囲気」を正しくつかむのは簡単ではないが、ここも僕の目にはごく普通の商業エリアあるいはそのはずれにしか見えなかった。
だが道脇の壁沿いには、ボロ布を張っただけのテントかまたは東京で云う「段ボールハウス」みたいなものが延々と向こうの方まで続いており、これがAさんの云う「ダッカの貧しい人々」の暮らしぶりなのだった。
ドライバーが車をUターンさせて、彼らの住まう歩道の脇へ着ける。
近くにあるダッカ市評議員事務所からT氏とその仲間が集めた古着の詰まった段ボールが運び出されてきた。T氏たちはこうして貧しい人々に毛布や衣類を寄付しているのだ。
Aさんたちが服を配り始めると、すぐにそこには列ができ、列はすぐに崩れて人々は我々の周りに群がり始めた。兵士が笛を吹いて制止するが、次々と手を伸ばして配られる古着をひっつかんでいく者は後へ退く気配もない。
「これは贈呈式じゃない。ただの寄付なんだ。もったいぶらずに早く配ってしまえ」T氏が指示を出す。
人々は無言のまま近づいてきて、それが男物だろうが女物だろうが、あるいは子供服だろうとも構わずに古着をつかんで人の輪を離れていく。
15分もして段ボールが空になると、ボディガードに導かれて僕は車にもどった。評議員事務所の男がT氏と言葉を交わし、車の窓から手を差し入れて僕と握手した。
農村で僕がみたものは貧しさですらなかった。だがアスファルトの歩道で営まれる生存への試みはまぎれもなく貧しかった。東京のホームレスとは違って子供も含めて一家もろとも路上生活というケースが多く、それが僕の「ホームレス」概念にかみ合わずに想像力がきしみ声をあげる。
土産物ばかりを売る店で買い物を済ませると、いよいよバングラデシュで最後の所用となるAさん宅での「お茶」に向かう。時刻は夕方の6時を回っている。
ダイニングへ通されると「お茶」だと云われていたのはほとんどフルコースといってもいいディナーで、要するにAさんが強硬に我々を招待した理由はこれなのだった。
「もう食べられないよ」T氏は云うが、女の子が生まれたばかりのAさんの奥さんがすでにかいがいしく食事の準備を進めている。無駄な抵抗だ。
僕もまさか数時間で二度もバングラデシュ風の歓待を受けるとは思っていなかったからすでに胸はいっぱいだったがAさん一家の安寧を祈り、フォークを手にした。T氏は「腹がいっぱいだ」と、都合7回口にした。
奥さんの目の前で僕の皿にサラダが盛られる。僕は目でAさんに助けを求めるが、Aさんはサラダを見つめたまま凍り付いて動かない。僕は彼の安寧のため、サラダを平らげる。
食後にはちょっとしたサプライズがあり、T氏と僕は三日間連れ添ってくれた仲間たちと別れを惜しんだ。
「あなたたちがあの農村を訪ねてくれたことに感謝しているよ。我々のことを、バングラデシュのことを忘れないで」
もちろんだと僕は答えて握手を交わす。
駐車場ではボディガードとの別れが待っていた。
三日間T氏と僕の安全を守るために毅然として任務にあたってくれた4人だ。敬礼する彼らに心から感謝を伝え、握手した。
空港へ向かう道々の渋滞にはもはや親しみさえ感じられ、おかしなことにバングラデシュへの名残惜しさはその大部分がこの渋滞にあるようにすら思った。ドライバーは変わることなくクラクションを叩き、周囲の車を煽りながら前へ前へと進んでいく。ピカピカのトヨタはどんなにきわどくても決して他の車やオートリキシャにはかすりもしない。
空港で車を降り、最後に仲間たちと別れの言葉を交わす。Aさんが小学校の子供たちから預かった風景画の額を渡してくれた。
僕は運転席へ回り、ドライバーに礼と称賛を伝えた。心からの称賛だった。
「あなたとあなたの車の写真を撮ってもいいかい」と云うと、ドライバーは唾をつけた手で髪をなでつけ、ポーズをとった。
「深夜プラス1 」。と僕はまた思った。東京はまさに真夜中を回った頃のはずだった。
Aさんは彼らのことを"poor people"と呼ぶ。彼は頻繁に"poor"という言葉を使うのだった。
知らない町でその一帯の「雰囲気」を正しくつかむのは簡単ではないが、ここも僕の目にはごく普通の商業エリアあるいはそのはずれにしか見えなかった。
だが道脇の壁沿いには、ボロ布を張っただけのテントかまたは東京で云う「段ボールハウス」みたいなものが延々と向こうの方まで続いており、これがAさんの云う「ダッカの貧しい人々」の暮らしぶりなのだった。
ドライバーが車をUターンさせて、彼らの住まう歩道の脇へ着ける。
近くにあるダッカ市評議員事務所からT氏とその仲間が集めた古着の詰まった段ボールが運び出されてきた。T氏たちはこうして貧しい人々に毛布や衣類を寄付しているのだ。
Aさんたちが服を配り始めると、すぐにそこには列ができ、列はすぐに崩れて人々は我々の周りに群がり始めた。兵士が笛を吹いて制止するが、次々と手を伸ばして配られる古着をひっつかんでいく者は後へ退く気配もない。
「これは贈呈式じゃない。ただの寄付なんだ。もったいぶらずに早く配ってしまえ」T氏が指示を出す。
人々は無言のまま近づいてきて、それが男物だろうが女物だろうが、あるいは子供服だろうとも構わずに古着をつかんで人の輪を離れていく。
15分もして段ボールが空になると、ボディガードに導かれて僕は車にもどった。評議員事務所の男がT氏と言葉を交わし、車の窓から手を差し入れて僕と握手した。
農村で僕がみたものは貧しさですらなかった。だがアスファルトの歩道で営まれる生存への試みはまぎれもなく貧しかった。東京のホームレスとは違って子供も含めて一家もろとも路上生活というケースが多く、それが僕の「ホームレス」概念にかみ合わずに想像力がきしみ声をあげる。
土産物ばかりを売る店で買い物を済ませると、いよいよバングラデシュで最後の所用となるAさん宅での「お茶」に向かう。時刻は夕方の6時を回っている。
ダイニングへ通されると「お茶」だと云われていたのはほとんどフルコースといってもいいディナーで、要するにAさんが強硬に我々を招待した理由はこれなのだった。
「もう食べられないよ」T氏は云うが、女の子が生まれたばかりのAさんの奥さんがすでにかいがいしく食事の準備を進めている。無駄な抵抗だ。
僕もまさか数時間で二度もバングラデシュ風の歓待を受けるとは思っていなかったからすでに胸はいっぱいだったがAさん一家の安寧を祈り、フォークを手にした。T氏は「腹がいっぱいだ」と、都合7回口にした。
奥さんの目の前で僕の皿にサラダが盛られる。僕は目でAさんに助けを求めるが、Aさんはサラダを見つめたまま凍り付いて動かない。僕は彼の安寧のため、サラダを平らげる。
食後にはちょっとしたサプライズがあり、T氏と僕は三日間連れ添ってくれた仲間たちと別れを惜しんだ。
「あなたたちがあの農村を訪ねてくれたことに感謝しているよ。我々のことを、バングラデシュのことを忘れないで」
もちろんだと僕は答えて握手を交わす。
駐車場ではボディガードとの別れが待っていた。
三日間T氏と僕の安全を守るために毅然として任務にあたってくれた4人だ。敬礼する彼らに心から感謝を伝え、握手した。
空港へ向かう道々の渋滞にはもはや親しみさえ感じられ、おかしなことにバングラデシュへの名残惜しさはその大部分がこの渋滞にあるようにすら思った。ドライバーは変わることなくクラクションを叩き、周囲の車を煽りながら前へ前へと進んでいく。ピカピカのトヨタはどんなにきわどくても決して他の車やオートリキシャにはかすりもしない。
空港で車を降り、最後に仲間たちと別れの言葉を交わす。Aさんが小学校の子供たちから預かった風景画の額を渡してくれた。
僕は運転席へ回り、ドライバーに礼と称賛を伝えた。心からの称賛だった。
「あなたとあなたの車の写真を撮ってもいいかい」と云うと、ドライバーは唾をつけた手で髪をなでつけ、ポーズをとった。
「深夜プラス1 」。と僕はまた思った。東京はまさに真夜中を回った頃のはずだった。
最終日の朝は遅めの朝食にして身体を休める。今日の夜ダッカを出る便で出国すると、成田まではまた長い旅になる。
ビュッフェでは果物や野菜を慎重に避ける。
二日前にホテルに着いてから、僕は歯を磨くのにもミネラルウォーターを使っている。水道の水を使うと腹を壊すとT氏に教えられたからだ。
三年前にバングラデシュを訪れた二人の退役自衛官は二人とも激しい下痢とともに帰国した。彼らは「サラダにやられました」と報告した。
かくてバングラデシュ訪問にあたり下痢を特A級のリスクと認めた僕は、もう丸二日間というもの生野菜の類に手をつけていない。厚労省の「目安」を200%以上上回る成分を含有するこちらも特A級の「生サプリ 」をガリガリ噛んで壊血病を防いでいた。
ここまで下痢の気配はなし。備えあれば憂いなしだ。
チェックアウトを済ませてロビーで迎えを待つ。当然、大幅な遅れだ。なにせ今日は日曜日だからダッカは平日なのだ。
ラウンジで休んでいると、隣のテーブルに着いた老人の携帯がたまに着信し、そのたびにコーランが大音響で響き渡る。
イスラム圏の音楽というのは、ブルース圏のそれとは本質的に異なっている。
「あるスポーツが盛んな地域を調べると、覇権国の勢力の歴史が見えて面白い」といしいしんじが「その辺の問題 」で云っていた。音楽について同じ事を調べると、民族移動の歴史がわかるに違いない。
今日の目的地はダッカ市内にあるアパレル工場だ。
人件費の安さが注目を浴び、バングラデシュの繊維・縫製工場は世界中のメーカーから注文を受けるようになっている。最近ではユニクロが自社工場を出したことが話題を呼んだ。
経済のテイクオフが軽工業から始まるのは、産業革命以来のならわしである。
工場は大規模なものだ。
いくつもあるビルディングを上から下まで見て回り、その広大なフロアを埋める労働者の数と彼らが手がける製品の多種多様なことに舌を巻く。
体育館ほどの広さがあるおのおののフロアで働いているのは多くが女性の従業員で、サリーをまとった彼女らが何百人と肩を並べ、生地にプリントをしたり縫い取りをしたり、型紙を抜いていたりするのはまさにこの貧しい国の「雇用の現場」といった風景だった。
「彼女たちは採用されたらすぐ職場に入るのですか?それとも何かトレーニングが行われて?」僕が尋ねるとAさんが答えた。
「彼女たちはここへくると2週間から1ヶ月ほどのトレーニングを受けます。それに耐えなければ採用はされません」
つまりこの「トレーニング」に耐える人材足りうることが、初等教育に期待されるミッション1というわけだ。なにも選抜されない子供たちにとって教育が無意味だということではない。
会議室でここの社長がミーティングの時間をとってくれる。
「日本のミズノからも受注したことがあるよ、後ろにかかっているそのシャツだ。世界中から注文がくるんだよ。我々はたしかにバングラデシュの会社だが、使われている機械はすべて日本やヨーロッパから取り寄せたものだからね。品質はとても高い。でもこの国では賃金が安いから、安い値段で作ることができる。それが世界から重宝される理由さ」
茶が出されるが、怖くて手を出せない。ペットボトルのミネラルウォーターばかりをあおった。
T氏が尋ねる。
「賃金が安いのがバングラデシュの強みだとあなたはおっしゃった。しかし少し前には中国がそうでしたね。ところがいまは賃金も高くなってしまい、世界の工場はバングラデシュへ移ってきた。日本だって昔はそうだったんです。賃金が安かった。ということはバングラデシュも、やがて賃金は上昇していくでしょう。そうすると工場はまた賃金の安い他の国を探して出て行くのではないですか」
この人の凄いところは、相手が誰であろうと核心に触れることをはっきり口にし、それに他意がないことを言外に伝えられるところだ。何を云っても嫌みになってしまう僕とは雲泥の差がある。
社長はにこやかな表情を数瞬くもらせた。
「もちろん、そうなるだろう」
つまりこの広大な工場に未来はない。
繊維工業によって繁栄を呼び込んだダッカの産業社会は、その繁栄によって繊維工業の首を絞める。
バングラデシュはその繁栄を足がかりに次のステージへ進んでいくが、この社長は工場ごと取り残されるだろう。ここもやがて巨大な廃墟になる。
「あなたがこの国の大統領だったら、この国の未来のために何をしますか」T氏はさらに尋ねる。カナダ帰りだという若いマネージャがちょっと考えて答えた。
「ダッカの状況は悪くなってきています。渋滞もひどく、環境も悪化している。人が多すぎるのです。原因は首都に多くの機能が集中しすぎていること。インフラがダッカに集中しすぎているのです。これを分散させていくことが重要ですね」
bullshitだ。
僕は心のなかでつぶやいた。帰国子女のこの若造は自分の国をまるで他人事のように見ている。
だがある意味ではこれがこの国が待望する「知的エリート」の姿なのかもしれない。少なくとも社長は戦略的に自分の人生を生きる能力を持っていないし、この若者はバングラデシュのどのフェーズにも対応可能な能力と柔軟性を持っている。バングラデシュが将来を託すべき人材がどちらであるかは明らかだ。
先進国は安い労働力を求めている。資本主義はその起源において、植民地が不可欠だとされていた。
今世紀に入り植民地が放棄されるにつれ、その考え方は論理的というよりはむしろ倫理的な理由から後退していく。
だがその実は何も変わらない。
先進国は本質的に、未発達な国を「必要としている」のだ。
やがてアジアの国々は(おそらくバングラデシュを最後にして)残らずテイクオフを果たす。
その次はアフリカか。その後100年も待てばアフリカもまたアジアのあとを追うのだろうか?ではその次は?
すべての国が豊かになることなどあり得ないのだとそこで僕は気付く。なぜならば先進国がそれを望まないからだ。
先進国は賃金の安い、いつまでも贅沢をいわない底辺の国を永遠に必要とするのだから。
国際競争下にある経済発展とはババ抜きに他ならない。
昼時の近づいた工場を我々は後にする。
「Hの自宅で昼食をとります」とT氏が教えてくれた。
Hさんの自宅はダッカ市街のどまんなかにある立派なフラットだ。ダイニングで奥さんの作った手料理に舌鼓を打つ。
バングラデシュではゲストが食事をとっている間、主とその妻はテーブルの脇に立ったまま給仕をする。これが落ち着かず、早く片付けようと詰め込んでいると「どうぞ」とHさんが僕の皿へサラダを盛った。
遂にきたかと僕は瞑した。
最終日、すでに予定はすべて終わっている。あとは夜空港へ行って飛行機に乗るだけだから、そうなればもうトイレはいつでもすぐそこだ。
僕はサラダに手を着ける。
もちろんうまい。何の問題もない新鮮なサラダである。だがおそらくこの家庭の水道で洗われた野菜には、僕の胃腸にとってunacceptableな細菌が付着しているのだ。南無三。
これからダッカ市内の貧しい人々に服を寄付します。食事を終えるとAさんが教えてくれる。その後皆さんは買い物をなさってください。それから私の自宅で食事をご用意します。食事の後、空港へ向かいましょう。
ちょっと待てとT氏が遮る。俺たちはいまここで飯をくったばかりだぞ。もう腹がいっぱいだ。
じゃあお茶にしましょうか。Aさんが譲歩する。私の妻がお待ちしています。我が家の安寧のためにどうかいらっしゃって下さい。
「お茶だぞ」とT氏が念を押し、スケジュールは確定した。
昨夜よりは早い時間だったがプールサイドに客は多くなかった。
相変わらず飛び回る大ぶりの蚊を気にしながらビールを飲んで、僕はT氏がビュッフェから戻ってくるのを待った。
「凄い量ですね。アメリカ人みたいですよ」
戻ってきたT氏は皿にいっぱいのバーベキューを積み上げていた。たしかにうまそうではあるが、こちらは酒を飲んでいるときに物を食べると倒れるたちだ。
「今日はどうでした?」T氏がローストビーフをやりながら訊いた。「今日はまた、昨日とは違った体験だったと思いますが」
僕の考えはまとまっていた。
「救われましたよ、今日は。もし今日がなくて、昨日のあの強烈な体験だけで放り出されていたら、僕は深く考え込んだまま戻ってこられなかったかもしれない」
日本の標準的な教室よりも二回りほど小さな照明のない教室。そこに詰め込まれた90人あまりの生徒たち。だが黒板には「全員96名、欠席3名、出席93名」と書かれており、カリキュラムと同様、その運用が教師の手によってしっかりとハンドリングされていることがうかがえた。
激しく緊張した面持ちの男子生徒が繰り出すいくつかの質問に答えたあと、僕は彼の机に積んであった教科書へ手を伸ばした。
「ちょっと見てもいいかな?」と云うと、後ろの席からも他の教科書が次々と差し出される。
ひとつは地理の教科書で、もうひとつは英語であった。
ぱらぱらと参考書を選ぶかのように目を通して、僕はここで行われていることを理解する。英語はともかくベンガル語で書かれた地理の教科書ですらも、その特徴はかつて受験戦争の正規兵だった僕の目にはっきりと明らかだった。
それは、選別試験に備えることを前提にした教材だった。
つまりかつて寺子屋で教えられたような「読み・書き・算盤」の域を超え、だが漠然とした教養を身につけさせようというものでもない。覚えさせ、情報を整理させ、それを試験で試すことにより生徒をふるい分けることを目的とした教育がそこでは行われていたのだ。
それは「学歴偏重」が云われ、ゆとり教育へと堕する以前の日本で行われていた教育と本質的に同じものだ。個性を無視していると非難され、子供を点数でしか評価できない「画一的」な教育だとしていつしか否定されるようになっていた、それだ。
だが生徒の能力を相対的に評価し、順番をつけるのはそもそも何のためであったか。
高度な教育を受ける機会は限られていた。より優れた生徒により高度な教育を施し、政治家や官僚といった国家の求める知的エリート層を急速に育てるために、選抜を、選抜のみを目的としたカリキュラム、システムは設計されたのだ。
国費で高等教育を受けられた、いわゆる「旧帝大」。あれは何のためにあったのかと云えば、国家に有能な官僚を送り込むための「工場」たるべく設けられたのである。商社や金融機関への就職を容易にするために作られたのとは違う。
たしかに日本の「選抜のための教育システム」は必要以上に長く続きすぎたのかもしれないし、あるいはもう少し幅を広げてもよかったのかもしれない。しかしバングラデシュはいままさにそれを求めている。
日本の三分の一の面積と1億5千万人の人々。全土を覆う貧困と、毎年繰り返す洪水になすすべをもたず進化を止めた国民生活。この状態に対して戦略的に、政策的に、外交や経済のメカニズムを駆使して取り組むことのできる人材を子供たちのなかから見つけ出し、育て上げ、政府・公共部門で働かせるため(あるいは医者やジャーナリストといった、高等教育を受けなければ就くことのできない職業に就けるため)、こうしたカリキュラムを採用し、バングラデシュにあわせて再設計し、教科書を配った人間がいるのだ。
国民が求めるままにパンや薬を配ったとしても、移り気な国際社会にいつまでも依存するだけで国民の生命と自由を守ることはできない。いまバングラデシュがすべきことはパンや薬を我慢してでも子供たちに教育を施し、選抜を行い、より高い教育を受けた知的エリート層を形成することだと気付いている人間が、政府内にいる。
ダッカのどこかにある埃っぽいビルの一室、灯りのつかないその部屋の片隅に置かれたデスクで仕事に取り組む1人の男を僕は想像した。
その男の戦略を僕は理解できた。それは明治維新以降の日本がかつて選び、歩んだ道だったからだ。
「その戦略を僕は理解し、支持しようと思います」僕はT氏に伝えた。
昨日のあの村、希望の意味すらわからないような人々、おそらくこの国のほとんどの人々が動物のように暮らしているという状況に対して、何をすればいいのか僕にはわかりません。
学校があれば希望が持てるのか、医者がいれば幸せになれるのか、そんな支援が1億5千万人もの人に対して可能なのか。あるいはこの国が豊かになったとして、その豊かさがどのようにしてたくさんの「昨日の村」へ広がっていくものなのか、僕にはわからないんです。
やはりダッカとその周辺だけしか豊かになることはできないのか、昨日の村は永遠に「昨日」を繰り返すのか、それで構わないのか、あるいはどんな無理をしても、すべてのバングラデシュ人の生活水準を向上させていかなければならないのか、ではそのためにあの洪水と戦うのか、バングラデシュ全土を干拓してでも国民に新しい生活をもたらすことが理想なのか、僕には決められない。
それはこの国の人々、バングラデシュ人自身にしか決められないことだからです。
農村を救うのは無理、農村は諦めて都市とその周辺だけを強くしていきましょうという選択もあり得るでしょう。でもそんな選択は、外国人にはできません。その資格はこの国の人にしかないんです。
だから僕はただ、あの教科書を配っている政府の戦略のみを支持しようと思います。
バングラデシュ人としてバングラデシュ人のために考え、行動する知的エリート層を獲得するため、まず子供たちに教育を施し、選抜を行っていこうというその戦略をです。
そこまでなら僕にも自信を持って支持ができるし、そのために何をすればよいのかもわかる。それから先のことは、そうやって育った子供たちが、自分たちで考え、決めていけばいいんだと思うんです。
「野良パスタさんがそうお考えなら、そうなさればいいと思います」T氏は云った。「自分がしたいと思ったことを、されるのが一番です」
僕は少女の質問と、僕の答えを思い出した。
日本にもかつて理想があった。
その頂点を目指して駆け上ってきた繁栄への道は、しかしシームレスに破滅へと続いていたかのように今は思われる。
その道をいま、行きたいと願う子供たちがバングラデシュにはいる。
その先にある醜悪なものや低俗なものについて、彼らの耳に入れる気にはならない。
彼らもその道を行けばいい。望む者にはその道を行く資格がある。
日本にはできなかったことが、バングラデシュにはできるかもしれない。彼らのイスラムへの強固な信仰心が、もしかしたら日本とは違う未来へ彼らを導いてくれるかもしれない。
僕はきっと、ナイーブなのだろう。
この国にも是非、あの坂道を駆け上ってみて欲しいと思った。
相変わらず飛び回る大ぶりの蚊を気にしながらビールを飲んで、僕はT氏がビュッフェから戻ってくるのを待った。
「凄い量ですね。アメリカ人みたいですよ」
戻ってきたT氏は皿にいっぱいのバーベキューを積み上げていた。たしかにうまそうではあるが、こちらは酒を飲んでいるときに物を食べると倒れるたちだ。
「今日はどうでした?」T氏がローストビーフをやりながら訊いた。「今日はまた、昨日とは違った体験だったと思いますが」
僕の考えはまとまっていた。
「救われましたよ、今日は。もし今日がなくて、昨日のあの強烈な体験だけで放り出されていたら、僕は深く考え込んだまま戻ってこられなかったかもしれない」
日本の標準的な教室よりも二回りほど小さな照明のない教室。そこに詰め込まれた90人あまりの生徒たち。だが黒板には「全員96名、欠席3名、出席93名」と書かれており、カリキュラムと同様、その運用が教師の手によってしっかりとハンドリングされていることがうかがえた。
激しく緊張した面持ちの男子生徒が繰り出すいくつかの質問に答えたあと、僕は彼の机に積んであった教科書へ手を伸ばした。
「ちょっと見てもいいかな?」と云うと、後ろの席からも他の教科書が次々と差し出される。
ひとつは地理の教科書で、もうひとつは英語であった。
ぱらぱらと参考書を選ぶかのように目を通して、僕はここで行われていることを理解する。英語はともかくベンガル語で書かれた地理の教科書ですらも、その特徴はかつて受験戦争の正規兵だった僕の目にはっきりと明らかだった。
それは、選別試験に備えることを前提にした教材だった。
つまりかつて寺子屋で教えられたような「読み・書き・算盤」の域を超え、だが漠然とした教養を身につけさせようというものでもない。覚えさせ、情報を整理させ、それを試験で試すことにより生徒をふるい分けることを目的とした教育がそこでは行われていたのだ。
それは「学歴偏重」が云われ、ゆとり教育へと堕する以前の日本で行われていた教育と本質的に同じものだ。個性を無視していると非難され、子供を点数でしか評価できない「画一的」な教育だとしていつしか否定されるようになっていた、それだ。
だが生徒の能力を相対的に評価し、順番をつけるのはそもそも何のためであったか。
高度な教育を受ける機会は限られていた。より優れた生徒により高度な教育を施し、政治家や官僚といった国家の求める知的エリート層を急速に育てるために、選抜を、選抜のみを目的としたカリキュラム、システムは設計されたのだ。
国費で高等教育を受けられた、いわゆる「旧帝大」。あれは何のためにあったのかと云えば、国家に有能な官僚を送り込むための「工場」たるべく設けられたのである。商社や金融機関への就職を容易にするために作られたのとは違う。
たしかに日本の「選抜のための教育システム」は必要以上に長く続きすぎたのかもしれないし、あるいはもう少し幅を広げてもよかったのかもしれない。しかしバングラデシュはいままさにそれを求めている。
日本の三分の一の面積と1億5千万人の人々。全土を覆う貧困と、毎年繰り返す洪水になすすべをもたず進化を止めた国民生活。この状態に対して戦略的に、政策的に、外交や経済のメカニズムを駆使して取り組むことのできる人材を子供たちのなかから見つけ出し、育て上げ、政府・公共部門で働かせるため(あるいは医者やジャーナリストといった、高等教育を受けなければ就くことのできない職業に就けるため)、こうしたカリキュラムを採用し、バングラデシュにあわせて再設計し、教科書を配った人間がいるのだ。
国民が求めるままにパンや薬を配ったとしても、移り気な国際社会にいつまでも依存するだけで国民の生命と自由を守ることはできない。いまバングラデシュがすべきことはパンや薬を我慢してでも子供たちに教育を施し、選抜を行い、より高い教育を受けた知的エリート層を形成することだと気付いている人間が、政府内にいる。
ダッカのどこかにある埃っぽいビルの一室、灯りのつかないその部屋の片隅に置かれたデスクで仕事に取り組む1人の男を僕は想像した。
その男の戦略を僕は理解できた。それは明治維新以降の日本がかつて選び、歩んだ道だったからだ。
「その戦略を僕は理解し、支持しようと思います」僕はT氏に伝えた。
昨日のあの村、希望の意味すらわからないような人々、おそらくこの国のほとんどの人々が動物のように暮らしているという状況に対して、何をすればいいのか僕にはわかりません。
学校があれば希望が持てるのか、医者がいれば幸せになれるのか、そんな支援が1億5千万人もの人に対して可能なのか。あるいはこの国が豊かになったとして、その豊かさがどのようにしてたくさんの「昨日の村」へ広がっていくものなのか、僕にはわからないんです。
やはりダッカとその周辺だけしか豊かになることはできないのか、昨日の村は永遠に「昨日」を繰り返すのか、それで構わないのか、あるいはどんな無理をしても、すべてのバングラデシュ人の生活水準を向上させていかなければならないのか、ではそのためにあの洪水と戦うのか、バングラデシュ全土を干拓してでも国民に新しい生活をもたらすことが理想なのか、僕には決められない。
それはこの国の人々、バングラデシュ人自身にしか決められないことだからです。
農村を救うのは無理、農村は諦めて都市とその周辺だけを強くしていきましょうという選択もあり得るでしょう。でもそんな選択は、外国人にはできません。その資格はこの国の人にしかないんです。
だから僕はただ、あの教科書を配っている政府の戦略のみを支持しようと思います。
バングラデシュ人としてバングラデシュ人のために考え、行動する知的エリート層を獲得するため、まず子供たちに教育を施し、選抜を行っていこうというその戦略をです。
そこまでなら僕にも自信を持って支持ができるし、そのために何をすればよいのかもわかる。それから先のことは、そうやって育った子供たちが、自分たちで考え、決めていけばいいんだと思うんです。
「野良パスタさんがそうお考えなら、そうなさればいいと思います」T氏は云った。「自分がしたいと思ったことを、されるのが一番です」
僕は少女の質問と、僕の答えを思い出した。
日本にもかつて理想があった。
その頂点を目指して駆け上ってきた繁栄への道は、しかしシームレスに破滅へと続いていたかのように今は思われる。
その道をいま、行きたいと願う子供たちがバングラデシュにはいる。
その先にある醜悪なものや低俗なものについて、彼らの耳に入れる気にはならない。
彼らもその道を行けばいい。望む者にはその道を行く資格がある。
日本にはできなかったことが、バングラデシュにはできるかもしれない。彼らのイスラムへの強固な信仰心が、もしかしたら日本とは違う未来へ彼らを導いてくれるかもしれない。
僕はきっと、ナイーブなのだろう。
この国にも是非、あの坂道を駆け上ってみて欲しいと思った。
車を連ねて村を出た我々は、Aさんの幼なじみで議員のHさんが経営する繊維工場を表敬訪問した。
地震国からきた私にはどう見てもにわか造りにしか思えないその工場、というかむしろ作りかけなのか壊しかけなのかというぐらい半端な作りの工場は、しかしここ数日招かれて足を踏み入れた建物のなかでは段違いに見事な二階建てだった。
今日は土曜日で、休日だ。わざわざ出勤してきてくれたのか若い工員によるデモンストレーションなどを見て、二階のオフィスで甘ったるい茶をごちそうになる。
乾燥しているため汗はかかないが、暑さで身体が疲れている。日本なら吹き出す甘さの茶がほっとする美味さだった。
学校を二つ訪問して、今回の旅はメーンイベントを終えている。まだ半分の日程を残しながら、緊張がわずかにほどけ始めて軽い頭痛が始まっていた。
ダッカ市内に戻るとまたとんでもない渋滞だ。
郊外と違うのは日本車がやたら多いことと、どちらを向いても東京無線みたいな色のオートリキシャが走り回っていることだ。こいつらはいったい一日に何人ぐらい死んでいるのだろうかと考える。
ワールド・トレード・フェアが開かれている。国際見本市だ。
もう時間は夕方だがとてつもない数の人が押し寄せていた。多くは各国ブースで販売されるどちらかといえば日用品に近い物品を買うのが目当てらしい。
「ボディガードにここでは笛を吹くなと云え」T氏がAさんに指示した。「この人混みで笛を吹いても人を怖がらせるだけだ。なにもこんなところで危険はないだろう」
Aさんは何か云いたげだったがボディガードの隊長に指示を伝える。彼らは忠実で、身振りと声で我々の周囲を整理するようになった。
恐ろしく混雑している会場の入口付近にはバングラデシュ名物の物乞いが奇形の身体をさらして座り込んでいる。物乞いがいるのが都市だ。
広大な会場にはアジアを中心とした各国のメーカーがブースを出しており随分繁盛していたが、なにしろ鍋を売っている店が多かった。
私は鍋が好きだ。
昔はフライパンが好きだったが、最近は大きめのソースパンが気に入っている。
次々に現れる鍋のブースにはずいぶん心を惹かれたが、迷彩服を着た兵士にガードされながら鍋を選ぶところを想像すると、消費税が導入された当時、報道陣とSPに囲まれながらデパートで水玉のネクタイを買っていた海部首相を思い出され、やめた。
日程が少し、狂い始めている。
昼食をとるはずだった店の予約をキャンセルし、「NGOで活動している日本人と話がしたい」という僕の願いもついにかなわなかった。長い道のりを同行してくれた人々をお礼に夕食へ招待したくもあったが、T氏も僕も今日はもう疲労困憊といったところであった。
時間はまだ7時を回ったところだったが、ホテルへ帰ろうとT氏が提案した。腹が減った僕はバックパックからプリッツを取り出してT氏と分ける。
3日目が暮れようとしている。
ホテルがもうそこに見えるところから車寄せまで、まだ20分あまりもかかる。車に果たして何の意味がと一日に何度も考えさせられるのがダッカだ。
ロビーで落ち合う時間を約し、T氏と一度別れる。部屋に戻って風呂を浴び、タバコを吸って考え事をした。
地震国からきた私にはどう見てもにわか造りにしか思えないその工場、というかむしろ作りかけなのか壊しかけなのかというぐらい半端な作りの工場は、しかしここ数日招かれて足を踏み入れた建物のなかでは段違いに見事な二階建てだった。
今日は土曜日で、休日だ。わざわざ出勤してきてくれたのか若い工員によるデモンストレーションなどを見て、二階のオフィスで甘ったるい茶をごちそうになる。
乾燥しているため汗はかかないが、暑さで身体が疲れている。日本なら吹き出す甘さの茶がほっとする美味さだった。
学校を二つ訪問して、今回の旅はメーンイベントを終えている。まだ半分の日程を残しながら、緊張がわずかにほどけ始めて軽い頭痛が始まっていた。
ダッカ市内に戻るとまたとんでもない渋滞だ。
郊外と違うのは日本車がやたら多いことと、どちらを向いても東京無線みたいな色のオートリキシャが走り回っていることだ。こいつらはいったい一日に何人ぐらい死んでいるのだろうかと考える。
ワールド・トレード・フェアが開かれている。国際見本市だ。
もう時間は夕方だがとてつもない数の人が押し寄せていた。多くは各国ブースで販売されるどちらかといえば日用品に近い物品を買うのが目当てらしい。
「ボディガードにここでは笛を吹くなと云え」T氏がAさんに指示した。「この人混みで笛を吹いても人を怖がらせるだけだ。なにもこんなところで危険はないだろう」
Aさんは何か云いたげだったがボディガードの隊長に指示を伝える。彼らは忠実で、身振りと声で我々の周囲を整理するようになった。
恐ろしく混雑している会場の入口付近にはバングラデシュ名物の物乞いが奇形の身体をさらして座り込んでいる。物乞いがいるのが都市だ。
広大な会場にはアジアを中心とした各国のメーカーがブースを出しており随分繁盛していたが、なにしろ鍋を売っている店が多かった。
私は鍋が好きだ。
昔はフライパンが好きだったが、最近は大きめのソースパンが気に入っている。
次々に現れる鍋のブースにはずいぶん心を惹かれたが、迷彩服を着た兵士にガードされながら鍋を選ぶところを想像すると、消費税が導入された当時、報道陣とSPに囲まれながらデパートで水玉のネクタイを買っていた海部首相を思い出され、やめた。
日程が少し、狂い始めている。
昼食をとるはずだった店の予約をキャンセルし、「NGOで活動している日本人と話がしたい」という僕の願いもついにかなわなかった。長い道のりを同行してくれた人々をお礼に夕食へ招待したくもあったが、T氏も僕も今日はもう疲労困憊といったところであった。
時間はまだ7時を回ったところだったが、ホテルへ帰ろうとT氏が提案した。腹が減った僕はバックパックからプリッツを取り出してT氏と分ける。
3日目が暮れようとしている。
ホテルがもうそこに見えるところから車寄せまで、まだ20分あまりもかかる。車に果たして何の意味がと一日に何度も考えさせられるのがダッカだ。
ロビーで落ち合う時間を約し、T氏と一度別れる。部屋に戻って風呂を浴び、タバコを吸って考え事をした。
