降るのか降らないのか、よくわからない天気が続いており、気候は不穏である。
そのさなか、ゆえあって韓国料理屋を転々とす。
中野「パッチギ
」は駅前から五丁目を早稲田通りまで抜ける夜のメインストリート入口に店を構えるポップな新店。
10坪ほどしかない店内は、ドラム缶を裏返して置いただけのテーブルを6卓もとっており、うちっぱなしの内装とあわせ、あたかもキャンプかバーベキューの様相だが「韓国料理屋」あるいは「焼肉屋」のイメージをかき消すような若者感を出している。なにせ備品・造作にカネがかかっていないのがいいが、その割にちゃんと韓国感を出しているあたり素人ではないとお見受けした。
平日の夜7時を過ぎて店内は満卓。4人のスタッフはやや多めかと思ったがフル回転だ。店長はオーナーか、と問うと、店長は厨房にいる彼、オーナーは私ですと流暢な日本語で答える女性がオーナーだそうだ。半年前に開店。
チャプチェを食う。昨今はやりというサムギョプサルを水晶板で焼き、味噌キャベツ、チジミとなんだかんだでテーブルが溢れた。ビール二杯。
「次へ行くぞ」と店を出ると、ガムの紙を剥きながら追いかけてきた店員が心配そうに訊く。
「ずいぶん残されているんですが、何か気持ちの悪いことでもありましたでしょうか?」
この行き届いた配慮、接客は満点以上のできばえであった。
「いえ、時間がないんです。ごめんなさい。おいしかったですよ、ごちそうさま」
薬師愛ロードを北上、新井薬師へ向かう。
新井薬師は記憶にまさる寂れようで、おちおち酒も飲めなそうな雰囲気であった。
タクシーを拾い、東中野「ソナム
」へ向かう。
東中野銀座から一本逸れたこれもまた不穏な一帯。あたりは住宅街のはずだが暗がりでよく見えない。どの家のなかでも何か恐ろしいこと、非道なことが行われているような気配がある。
店は思いの外繁盛している。
こちらは二十坪近くの店に、テーブル20席、小上がりがさらに12席ほど。これを三人の店員が世話しているのだからたいしたものだ。
入口から店内にいたるまで、「TOKYO WALKER」ないし某の雑誌に載ったという、その掲載誌が貼り込まれ、歴史と定評を思わせる。
名物は「当店が初」と控えめに謳うカムジャタン。同行したPさんが「韓国焼肉のブームがくる更に前、韓国ではやったカムジャタンをその時代に持ち込んだ店に違いない」と看破した。豚の背骨とジャガイモを辛いスープで煮るカムジャタンは、キャバクラ帰りにアフターで嬢とダラダラつまむものだということであった。腹がいっぱいで食えない。
チャミスルを所望。ダラダラやるが、ほかの客もまた一向に帰る気配を見せない。とはいえ平日でこの入りなら文句はなかろう。歴史がモノを云う、地元の名店という趣で、iPhoneをガシガシ繰りながらたどり着いたような一見さんは明らかに我々だけであった。
ところで韓国料理屋では店内を流れるBGMに必ず韓国のポップスが使われるが、これが注意して聞かないとわからないほど日本のポップスに酷似しており、
「ヒット曲」の構造が両国において共有されていることを改めて思い知る。
「いい曲」を作ることはさほど難しい作業ではないのであろう。
テーブルの向かいでチャミスルをロックでやっていたデビリオンが次の店をヒットする。
東中野駅前「民族村
」。ニッポンレンタカーの二階にあって、階段を上がると今度は先の二店舗をさらに倍するかのごとく広大な店内だが韓国感がない。観光地の参道脇などにありがちな、修学旅行生目当てのうどん屋を思わせる非常に無味な内装であった。
夫婦とおぼしき二人が厨房からうろんな目をこちらに向けた。
窓際の席に着き、チャミスルをとる。
「もう食えない」とデビリオンが泣き言を云い、やむなくチャプチェだけを注文した。味はマイルドで悪くない。キャベツの目立つチャプチェを指して、「この作りは本物だ」とPさんが云う。
チャプチェは祝い事があったときに家庭で作られる料理だという。「ちらし寿司みたいなもんか」と訊くと、「おそらくそうだ」ということだ。感心してつまむ。
私にとってチャプチェとは、「モランボン 韓の食彩 チャプチェ
」とほぼ同義であって、店主の手になるマイルドな味は不思議な印象だが、Pさんは「これこそがチャプチェだ」と断言した。
あなたは韓国からきたのかと店主に問うた。
「そうです。三年前に」との答えにのけぞる。50がらみのその男はたった三年前に日本に渡ってきて、韓国料理屋を始めたというのだ。
「ご家族もご一緒に?」とさらに尋ねると、嬉しそうにテーブルの脇へきて話をしてくれた。
妹が13年前に韓国から日本に渡っており、彼女に招かれて娘を連れ、南を出たという。妹が東中野で切り盛りしている店が「マッコリハウス
」。文字通りの姉妹店というわけだ。
チャミスルの大瓶を二本空け、もうどうにもわけがわからなくなったため本日の業を終える。勘定を済ませると、店主がお土産だと云って、「辛ラーメン」を1人に1包ずつくれた。深く感謝しながら店を降りる。
「カムサハムニダ、アンニョンハセヨ、ありがとうございます、カムサハムニダ、おやすみなさい・・・」という店主の声は階段を降りて通りに出るまで続いていた。
雨はまだ、降るか降らぬかという神経戦を1人で続けていた。
さっさと駅へ向かうデビリオンはそこで消えた。Pさんと僕はタクシーをつかまえ、西へ向かう。
車中、Pさんが訊いた。
「夢は何ですか」
僕はハンドルを回してタクシーの窓を開けると、不穏な夜空を見上げながら答えた。
「幸せに生きること」。
どうしても通らねばならぬ道がある。子供たちは「桃太郎」や「赤ずきん」を読んでおかなければ世の物語を貫く基本的な筋道を理解することができないし、バーテンダーになったって、せめて分数の足し算ぐらいはできないとどうにもならない時がくる。
どんなにつまらないと分かっていても、すでに結末を聞いていても、その意味するところを身にしみて理解していたとしても、観ておかなければならぬ映画があり、読んでおかなければならぬ書物がある。
ヴェンダースの「パリ、テキサス」やストーンズの「悲しみのアンジー」、三島由紀夫の小説(私は三島由紀夫を読んでいない)がそれだ。
「もしも高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら 」は私にとり、やむなく読む以外ない書であった。
「ドラッカーの『マネジメント』」が何を意味するかぐらいは知っている私が現代の古典と女子高校生の組合せに反応することを知って付けられたこれはタイトルであるし、そういう「私専用」のハニーポットにあえて落ちることは日常的なアイデンティティのメンテナンスによい。
ところで「専用」という言葉に優越感をおぼえるようになったのはシャアの影響だ。
普段経営書やビジネス書といった類のものを、私は一切読まない。一般にこれらは役に立たないと考えているからだ。
こうした書物は「どうすれば成功するか」「どうすれば物事がうまくいくか」を様々なかたちで論じている。だが読む前と読んだ後で、成功する確率はおそらく変わらないだろう。なぜか。
それはこれらがすべて成功者によって書かれているからだ。
成功者は自分が成功した道のりを、よかれと思って一般に知らしめ、その道をこいと誘っている。だが彼と同じように成功するためには、彼とおなじ時代に同じ環境で同じことをし、同じ幸運に恵まれなければならない。
長嶋茂雄も云っていた。
「長島」とは1人の野球選手のことを指すのではなく、高度経済成長に沸いたあの時代に大衆の期待と熱狂が作り出したキャラクターのことなのだと。
エジソンになるためにはまず19世紀に生まれ、難聴をわずらわねばならないと、そういうことだ。
だから私はビジネス書の類を読まない。
「出世するための10箇条」という本を読んで、10箇とも実行したって出世するわけではない。
他方「会社をクビになるための10箇条」という本があったとしたら、遅くとも3つ目を実行する頃には確実にクビになるであろう。
つまりこの茫漠たる世界に成功への道は数えるほどしかなく、失敗への道は無限にあるというわけだ。
「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」とは野村監督の格言だ。
勝者にしても、自分がなぜ勝者たりえたのかなど分からぬほどその道は細く、謙虚で現実的な者はそれを「幸運だったから」こられたのだと答える。ただ自分語りというのはいつも気持ちのいいものだから、自制のきかないやつが「出世するための10箇条」みたいな本を書いているだけで、たいていの場合、それはただの日記である。
その点ドラッカーは謙虚だ。
それは彼が経営者ではなく学者であったということにもよろうが、彼は「あれをこうしろ」などと指図するようなことは慎重に避ける。
ドラッカーはいかなるレイヤーであれ一度でもマネジメントに携わった経験のある者であれば必ず思い当たるような云い回しでもって問題に触れ、常に「本質」に迫る真摯な筆致で(本書を読んでもわかるが、結局のところ「真摯」というのがドラッカーの「マネジメント」において非常に重要なキーワードであって、それはドラッカーの語り口が誠に真摯であることからも伝わってくるのである)「重要なのは、こう考えることだ」と諭してくれる。
見事なのは誰もが自分の経験に置き換えることができるほど想像力に訴える言葉遣い(おそらくは、名訳!)で、高校野球の女子マネージャーにこれを読ませようという発想も荒唐無稽と云いきれぬほどに、その示唆するところはあまねく人の(組織の)営みに及ぶ。
ドラッカーは「人間は悲しいほど弱い」と云い、それでも人が生産的であろうとするとき、その弱さを補うために組織があり、マネジメントが必要とされるのだと語る。
それは一見「経営書」のはしりであるかのように見えて、しかし悲しいまでに真摯で深い人間に対する愛の告白である。
最近楽天のロゴがでかでかと貼り出された「有料動画サイト」のShowTime
が「交響詩篇エウレカセブン」の冒頭7話を無料で配信している。「後悔しないから是非観てくれ」と薦めたいところだが、終盤必ず後悔する作品なのでごり押しはよす。ただ中盤までは無理なく楽しめるドライブをもったポップなアニメである。
ところで「ポップ」であるとは、コピーによって製造された大量生産の産物であるか、または意図的にそれを装った(か、強調した)様子を指していうのだと思っている。
「エウレカ」は第一話から溢れんばかりの模倣と言及に満ちたアニメーションで、「王道である」「模倣である」とはどうしてかこんなにも楽しいのだろうと改めて考えさせられるところが、よい。
ポップであることそれ自体を好むことは「キッチュ」であると称され、よくすると小悪魔、打ち所が悪ければ「バカ」「痛いやつ」「貧乏くさい女」などとその評価は様々に分かれ、充分な注意が必要である。
(ちなみにShowTimeでの「エウレカセブン」のジャンルは「ロボット/メカ/青春/ドラマ/ラブ」)
しかしポップであるとは実にすがすがしい。
私は生き方(スタイルであって、道ではない。まして音楽の話ではない)としてロックを選んでいるし、音楽としてジャズを好む人もとりたてて嫌いではないが、しかしポップの味わいというのはそういった選好を超え、普遍である。
15年も前になるだろうか、おずおずと昼間、遊び始めた東京の街を埋め尽くしていた宇多田ヒカルのヒット・チューンに強烈な「ポップス」を感じたことをいまでも思い出す。カラオケに行けば男も唄っていた。
テレビを付ければ(あるいは付けなくても)全盛期の広末涼子や松浦亜弥が独創性などみじんもないフレームのなかに収まっていた。それは、いまや快楽は大量生産が可能であることを保証する資本主義の女神のほほえみだった。
その点で昨今、ポップを感じることはめっきり減ったように思う。
アニメも音楽もスポーツ選手も、みな相変わらず大量生産されているが、そこに「ありがちな、アレ」であることのニヤリは生まれない。
もちろん先日上梓された「1Q84 」などはその部類に入ろうが、村上春樹はその30年も前からポップであり続けているだけで、60歳を超えたジャズマニアのおっさんにポップの旗手を担われてはやはりたまらない。
大量生産の消費財というのは、たとえば子供の宝物になってしまうグリコの食玩のように悲しいぐらいチープな製造原価にもかかわらず人の心をつかんでしまう「まがい物」であることこそが価値の本質である。
歌や小説といった「作品」ではなく、「アーティスト」である(はずの)自分自身までもが大量生産の産物に過ぎず、際限なく消費されていくことに気付きもしないような若者の手によるポップの再興を願ってやまない。
僕は初めてEに出会った日のことを鮮明に覚えている。
まだ駆け出しの管理職だった僕に突然、僕が採用したわけでもなく、僕の部下になるわけでもない新入社員のオリエンテーションが回ってきたのだ。
「うちの会社はほら、いろいろ複雑だから、野良パスタさんがうまいこと説明しといてよね」と理由にならない説得でささやかな抵抗を押し切られ、僕は2人の女性にオリエンテーション、すなわち我が社の膨大なローカルルールを授ける儀式を承った。
2人のうちの1人が、Eだった。
直前に渡された履歴書を慌ただしく読み下すと、そこにはEが勤めた会社が2社続けてまもなく倒産した事実が記載されていた。幼い頃におぼえるちょっとした法則に従えば、うちが3社目になる可能性は否定できず、僕は禍々しい予感に身を震わせた。
結局僕は昼食のための休憩を挟み、3時間以上もしゃべり続けた。
ホワイトボードに様々な組織図やキーワードを書いては消し、事業概要から市場環境、社内にあまたある部署の職掌に、それぞれの部長がいかなる気質でどう対処すべきかにいたるまでを語り尽くした僕のオリエンテーションは、むしろ出していいものなら一冊本にして社員食堂の入口で売ろうかしらと思うほど壮大な叙事詩になった。
何度も汗をぬぐいながら話す僕とホワイトボードを、腕組みをしてメガネの奥からじっと見ていたEをいまでも思い出すことができる。
案の定、その後まもなくして会社は潰れた。
しかし多くの人の勇気によってそのすべてが失われることは妨げられ、僕たちは残った仲間とともに再出発することを許される。
そこにEはいた。
そして昨年まで、ついに5年半もの間、Eはそこにいたのだった。
その月日は僕からある種の無邪気さを奪い、Eが会社を去ることはEが会社へやってきたあの日のことほど僕を動揺させなかった。
Eは苦しみを生きている。
人にとって苦しみとは生きながら味わうものだが、また時として人は、苦しみそのものを生きなければならないことがある。
Eの「日記」と称されたあるウェブページに、僕はEのための短いノートを残す。
人間には、時間の止まった世界を想像することができない。
同じように人間には、自分が他の人間に生まれ変わって生きているところを想像することができない。 「自分」はあまりにも細かいところまで自分であって、「自分」はまたあまりにも幅広く自分だからだ。
平凡な人生を送ることだけはまっぴらだと思って生きてきたら、「死んだ方がマシだ」と思うような目にも何度か遭った。
でも「最初から生まれてこなければよかった」と思ったことは一度もない。
そんなことを考えるときはいつも、少なくともそれだけは親に感謝しなければならないと思うし、それ以外のことなら全部、誰のせいにするでもなく引き受けて生きていけると思うのだ。
どうもありがとう。
そこにはひとつだけ嘘が含まれている。だがそれは僕だけの秘密だ
人はみな頭蓋骨に守られた幻想のなかを生きている。
大切なことは、僕たちは誰かの記憶に残ることができるということなのだと思っている。
まだ駆け出しの管理職だった僕に突然、僕が採用したわけでもなく、僕の部下になるわけでもない新入社員のオリエンテーションが回ってきたのだ。
「うちの会社はほら、いろいろ複雑だから、野良パスタさんがうまいこと説明しといてよね」と理由にならない説得でささやかな抵抗を押し切られ、僕は2人の女性にオリエンテーション、すなわち我が社の膨大なローカルルールを授ける儀式を承った。
2人のうちの1人が、Eだった。
直前に渡された履歴書を慌ただしく読み下すと、そこにはEが勤めた会社が2社続けてまもなく倒産した事実が記載されていた。幼い頃におぼえるちょっとした法則に従えば、うちが3社目になる可能性は否定できず、僕は禍々しい予感に身を震わせた。
結局僕は昼食のための休憩を挟み、3時間以上もしゃべり続けた。
ホワイトボードに様々な組織図やキーワードを書いては消し、事業概要から市場環境、社内にあまたある部署の職掌に、それぞれの部長がいかなる気質でどう対処すべきかにいたるまでを語り尽くした僕のオリエンテーションは、むしろ出していいものなら一冊本にして社員食堂の入口で売ろうかしらと思うほど壮大な叙事詩になった。
何度も汗をぬぐいながら話す僕とホワイトボードを、腕組みをしてメガネの奥からじっと見ていたEをいまでも思い出すことができる。
案の定、その後まもなくして会社は潰れた。
しかし多くの人の勇気によってそのすべてが失われることは妨げられ、僕たちは残った仲間とともに再出発することを許される。
そこにEはいた。
そして昨年まで、ついに5年半もの間、Eはそこにいたのだった。
その月日は僕からある種の無邪気さを奪い、Eが会社を去ることはEが会社へやってきたあの日のことほど僕を動揺させなかった。
Eは苦しみを生きている。
人にとって苦しみとは生きながら味わうものだが、また時として人は、苦しみそのものを生きなければならないことがある。
Eの「日記」と称されたあるウェブページに、僕はEのための短いノートを残す。
人間には、時間の止まった世界を想像することができない。
同じように人間には、自分が他の人間に生まれ変わって生きているところを想像することができない。 「自分」はあまりにも細かいところまで自分であって、「自分」はまたあまりにも幅広く自分だからだ。
平凡な人生を送ることだけはまっぴらだと思って生きてきたら、「死んだ方がマシだ」と思うような目にも何度か遭った。
でも「最初から生まれてこなければよかった」と思ったことは一度もない。
そんなことを考えるときはいつも、少なくともそれだけは親に感謝しなければならないと思うし、それ以外のことなら全部、誰のせいにするでもなく引き受けて生きていけると思うのだ。
どうもありがとう。
そこにはひとつだけ嘘が含まれている。だがそれは僕だけの秘密だ
人はみな頭蓋骨に守られた幻想のなかを生きている。
大切なことは、僕たちは誰かの記憶に残ることができるということなのだと思っている。
暑い/寒い、辛い/甘い、高い/低い、尊い/醜い、清い/汚いと、言葉は一見自由だ。
あるいは言葉は組み合わせによってさらに多次元的なスペースを飛び回ることができる。「ドブネズミみたいに美しく」というやつだ。こうすれば言葉はもう美しい/汚い というベクトルを脱線する自由を獲得している。
しかしバングラデシュで見たものについて、僕の云いたいのはそういうことではなかった。
そこで僕が見てきたことのなかで重要なものは1つしかないと云ってもいい。それは
「農村地域のあの人たちは、あれは動物だ」
というその事実、その他すべての震源たるその認識である。
だがこのフレーズは果たして「生きている」のであろうか、表現たりうるのだろうかと僕は恐れる。
人間のことを動物と同じだと言い捨てたひとを、かつて僕は知らない。
わかったような口を利いて「いやぁ、我々人間もみな動物だよ」などと云う者はいても、たとえば障害のある人を指して「あれは壊れた人間だ」と云ったり「欠陥のある人間だ」と云ったりするのと同じ意味で、ひとを動物だと云ったことのある人を僕は知らない。なぜか。
それは貧しくても、障害があっても、教育を受けていなくても「人は同じ」で「平等」だという仮説を支持する社会に我々が生きているからだ。
いやな思い出がある。
小学校には特殊学級があった。
あるとき特殊学級の教師がプレゼンテーションを企画し、それが行われた。
特殊学級の生徒たち自らも壇上に立って、その活動やカリキュラムについての紹介が行われたあと、我々にアンケート用紙が配られた。設問1を鮮明に覚えてい る。
あなたは特殊学級のひとたちのことをどう思いますか?
1: ばかだと思う。
2: かわいそうだと思う。
3: みんなおなじだと思う。
「正解」は3だと読み取った僕はそつなくそのように回答した(僕は僕でそういうタイプの子供だった)が、それにしてもと今でも思う。
このアンケートを用意した教師はその立場を利用して、いったい何をしようとしていたのだろうか。
特殊学級を必要とする生徒たちに対しては特殊学級でもってしか平等な教育を担保できないから特殊学級が存在するのであって、そんなことはそれこそ「ばか」 な小学生にも明らかなのだ。
それを「みんなおなじだと思う」などと、事実はおろか生徒たち自身のストレートな(そして正しい)事実認識や感覚までをも否定するかのような誘導尋問を行い、どのような世界を作ろうとこの教師は企図したのだろうか。
人は生まれながらにしては平等でない。
だが平等ではないことを悲しむ心を持って生まれている。
だから平等であれと願って様々な努力をするのだ。障害のある者も、ない者も。
よってお前たちにもと教師は語りかけるべきであった。努力を求めたいのだと。
しかしこの教師は馬鹿であったからそうはしなかった。
そうではなく、「障害のある者は、障害のない者とは違う」というシンプルな事実を指摘する言論を封殺したのである。
言葉を殺したのである。
こうした言葉の圧殺は今日にいたるまでありとあらゆるところで行われている。
「裸の王様」という童話を読み聞かせ、「真実を恐れない心」を鍛えなさいと子供に言い聞かせる一方で、真実を告げる手段を刈り取るのが僕の知る「戦後民主主義教育」である。
だいたい民主主義などこの国では一度も実現したことがないにもかかわらず、そんなことがバレるとまた原爆を落とされかねないからと、「日本は民主主義国家だ」「日本は民主主義国家だ」と言いつのる大人たちが言葉を粗末にした挙げ句、「日本は集団的自衛権を有しているが、行使することは禁じられている」などとわけの分からない言葉遊びで憲法解釈をして、それがなんと「政府見解」としてまかり通ってきたのが、この国だ。
理想は、理想だ。それでいい。理想が理想に過ぎないからと云って何恥じることがあろうか。
他方、現実は現実なのだ。何かをなそうとしてこの手が触れるのは理想ではない。現実に触れるのである。その現実がいかなるものか直視する勇気を、この国の教育は損なっている。理想を語る言葉ばかりは教えられて、現実との対決姿勢を表明する言葉は簒奪される。
結果、僕の言葉は僕のものではなくなってしまう。
「あのひとたちは動物となんら変わるところがない」という言葉で僕は自分の見てきたものをあなたに伝えたいと思う。
だがそれを口にするとき、僕はすでに恐れている。
あなたと僕が共有している「日本語」の言語体系が、このフレーズを受けとめ、あなたに正しく伝えてくれないのではないかということを。
現実についての表現を、思想でもって裁かれてしまうのではないかということを。
メディアでそれが起こる。
ニュースキャスターがこんなことを口にすれば、彼/彼女はその日で降板となるだろう。それどころかCMが明けたらいなくなっている可能性すらある。
学校でそれが起こることはすでに述べた。
家庭でもおそらくそれは起こる。
なぜならかような教育を野放しにしたのは我々の親にあたる世代の人々だからだ。
言葉はツールではない。
それはあなたと話す相手のふたりを包む社会が許す共通理解のひとつの「現れ」でしかないのだ。
異国での数日間を過ごした後、成田へ向かう機上の人となって僕は謙虚であった。
僕は日本の社会でしか満足に生きていくことができない人間だ。日本の社会の限界と境界には注意深くあらねば生きる場所を失ってしまう。
「あのひとたちは動物となんら変わるところがない」。
僕がバングラデシュで発見してきた事実はおそらくこうだ。だがこの言葉を平然と口にして、おののくことをしなくなってしまったとき、僕は日本人として生きていくために必要な精神構造を失ってしまうだろう。それは言葉の通じない異国でパスポートを失ってさまよい歩くことに等しい。
みぞおちのあたりに何か重たいものが詰まっていて、じんじんとうずき続けていた。
成田は寒かったがTシャツにジャケットをはおっただけの格好でも平気でいられるのが不思議だった。
バックパックを背負い、税関でパスポートを示して質問を待つ。税吏は礼儀正しい男で、滞在先についていくつか尋ねたあと、最後に何か申告すべきことはあるかと訊いた。
バングラデシュでは人と動物に大きな違いがありません。
しかし日本語にはそれを伝える言葉がありません。
僕は差し出されたパスポートを受け取り、答えた。「いえ、なにも」
ではどうぞ、お疲れ様でしたと税吏は云った。次の方。
少なくとも、と僕は到着ロビーの外へ出るとタバコを一服吸いながら考えた。
2010年のバングラデシュから言葉を持ち帰るというのは簡単なことではなかった。
5日前、文房具ではち切れそうになっていたバックパックの中身はほんのちょっとのお土産品にとってかわり、僕は身体のまんなかに何か静かな熱をもった真実を感じていた。
あるいは言葉は組み合わせによってさらに多次元的なスペースを飛び回ることができる。「ドブネズミみたいに美しく」というやつだ。こうすれば言葉はもう美しい/汚い というベクトルを脱線する自由を獲得している。
しかしバングラデシュで見たものについて、僕の云いたいのはそういうことではなかった。
そこで僕が見てきたことのなかで重要なものは1つしかないと云ってもいい。それは
「農村地域のあの人たちは、あれは動物だ」
というその事実、その他すべての震源たるその認識である。
だがこのフレーズは果たして「生きている」のであろうか、表現たりうるのだろうかと僕は恐れる。
人間のことを動物と同じだと言い捨てたひとを、かつて僕は知らない。
わかったような口を利いて「いやぁ、我々人間もみな動物だよ」などと云う者はいても、たとえば障害のある人を指して「あれは壊れた人間だ」と云ったり「欠陥のある人間だ」と云ったりするのと同じ意味で、ひとを動物だと云ったことのある人を僕は知らない。なぜか。
それは貧しくても、障害があっても、教育を受けていなくても「人は同じ」で「平等」だという仮説を支持する社会に我々が生きているからだ。
いやな思い出がある。
小学校には特殊学級があった。
あるとき特殊学級の教師がプレゼンテーションを企画し、それが行われた。
特殊学級の生徒たち自らも壇上に立って、その活動やカリキュラムについての紹介が行われたあと、我々にアンケート用紙が配られた。設問1を鮮明に覚えてい る。
あなたは特殊学級のひとたちのことをどう思いますか?
1: ばかだと思う。
2: かわいそうだと思う。
3: みんなおなじだと思う。
「正解」は3だと読み取った僕はそつなくそのように回答した(僕は僕でそういうタイプの子供だった)が、それにしてもと今でも思う。
このアンケートを用意した教師はその立場を利用して、いったい何をしようとしていたのだろうか。
特殊学級を必要とする生徒たちに対しては特殊学級でもってしか平等な教育を担保できないから特殊学級が存在するのであって、そんなことはそれこそ「ばか」 な小学生にも明らかなのだ。
それを「みんなおなじだと思う」などと、事実はおろか生徒たち自身のストレートな(そして正しい)事実認識や感覚までをも否定するかのような誘導尋問を行い、どのような世界を作ろうとこの教師は企図したのだろうか。
人は生まれながらにしては平等でない。
だが平等ではないことを悲しむ心を持って生まれている。
だから平等であれと願って様々な努力をするのだ。障害のある者も、ない者も。
よってお前たちにもと教師は語りかけるべきであった。努力を求めたいのだと。
しかしこの教師は馬鹿であったからそうはしなかった。
そうではなく、「障害のある者は、障害のない者とは違う」というシンプルな事実を指摘する言論を封殺したのである。
言葉を殺したのである。
こうした言葉の圧殺は今日にいたるまでありとあらゆるところで行われている。
「裸の王様」という童話を読み聞かせ、「真実を恐れない心」を鍛えなさいと子供に言い聞かせる一方で、真実を告げる手段を刈り取るのが僕の知る「戦後民主主義教育」である。
だいたい民主主義などこの国では一度も実現したことがないにもかかわらず、そんなことがバレるとまた原爆を落とされかねないからと、「日本は民主主義国家だ」「日本は民主主義国家だ」と言いつのる大人たちが言葉を粗末にした挙げ句、「日本は集団的自衛権を有しているが、行使することは禁じられている」などとわけの分からない言葉遊びで憲法解釈をして、それがなんと「政府見解」としてまかり通ってきたのが、この国だ。
理想は、理想だ。それでいい。理想が理想に過ぎないからと云って何恥じることがあろうか。
他方、現実は現実なのだ。何かをなそうとしてこの手が触れるのは理想ではない。現実に触れるのである。その現実がいかなるものか直視する勇気を、この国の教育は損なっている。理想を語る言葉ばかりは教えられて、現実との対決姿勢を表明する言葉は簒奪される。
結果、僕の言葉は僕のものではなくなってしまう。
「あのひとたちは動物となんら変わるところがない」という言葉で僕は自分の見てきたものをあなたに伝えたいと思う。
だがそれを口にするとき、僕はすでに恐れている。
あなたと僕が共有している「日本語」の言語体系が、このフレーズを受けとめ、あなたに正しく伝えてくれないのではないかということを。
現実についての表現を、思想でもって裁かれてしまうのではないかということを。
メディアでそれが起こる。
ニュースキャスターがこんなことを口にすれば、彼/彼女はその日で降板となるだろう。それどころかCMが明けたらいなくなっている可能性すらある。
学校でそれが起こることはすでに述べた。
家庭でもおそらくそれは起こる。
なぜならかような教育を野放しにしたのは我々の親にあたる世代の人々だからだ。
言葉はツールではない。
それはあなたと話す相手のふたりを包む社会が許す共通理解のひとつの「現れ」でしかないのだ。
異国での数日間を過ごした後、成田へ向かう機上の人となって僕は謙虚であった。
僕は日本の社会でしか満足に生きていくことができない人間だ。日本の社会の限界と境界には注意深くあらねば生きる場所を失ってしまう。
「あのひとたちは動物となんら変わるところがない」。
僕がバングラデシュで発見してきた事実はおそらくこうだ。だがこの言葉を平然と口にして、おののくことをしなくなってしまったとき、僕は日本人として生きていくために必要な精神構造を失ってしまうだろう。それは言葉の通じない異国でパスポートを失ってさまよい歩くことに等しい。
みぞおちのあたりに何か重たいものが詰まっていて、じんじんとうずき続けていた。
成田は寒かったがTシャツにジャケットをはおっただけの格好でも平気でいられるのが不思議だった。
バックパックを背負い、税関でパスポートを示して質問を待つ。税吏は礼儀正しい男で、滞在先についていくつか尋ねたあと、最後に何か申告すべきことはあるかと訊いた。
バングラデシュでは人と動物に大きな違いがありません。
しかし日本語にはそれを伝える言葉がありません。
僕は差し出されたパスポートを受け取り、答えた。「いえ、なにも」
ではどうぞ、お疲れ様でしたと税吏は云った。次の方。
少なくとも、と僕は到着ロビーの外へ出るとタバコを一服吸いながら考えた。
2010年のバングラデシュから言葉を持ち帰るというのは簡単なことではなかった。
5日前、文房具ではち切れそうになっていたバックパックの中身はほんのちょっとのお土産品にとってかわり、僕は身体のまんなかに何か静かな熱をもった真実を感じていた。