御真影 wiki抜粋
教育現場の御真影は1890年代頃から本格的に配布されるようになり、これらは天皇と同一視され、最大級の敬意をもって取り扱われるようになり、1920年代からは奉安殿に保管されるようになった。
宮内省から各学校に貸与され、奉安殿に教育勅語と一緒に保管された。下付は強制ではなく、各学校からの請願の上、その学校が「優等」とされた場合に下付されることとなっていた。宮内省からの「貸与」品として、ことさら慎重な取り扱いを求められており、1898年(明治31年)に長野県の町立上田尋常高等小学校では、失火により明治天皇の御真影を焼いてしまい、当時の校長・久米由太郎が責任を負って割腹自殺するという事件が起きた。また、1933年(昭和8年)、沖縄県南城市の第一大里小学校(現在の大里北小学校)が火災に遭い、御真影が焼けてしまった際にも当時の校長が割腹自殺をした。紛失を防ぐため、学校ではなく町村役場で保管した例もあった。
第二次世界大戦の敗北に伴い1945年(昭和20年)12月に文部省は学校からの御真影回収を指示し、これに応じて御真影は都道府県単位で回収され焼却処分(「奉焼」)された。回収後再下付が行われるものとされていたが、実際には文部省は再下付に消極的だった。サンフランシスコ講和条約が発効し日本の占領が終わった1952年(昭和27年)6月に秋田県の敬愛学園高校が再下付を申請し認められたことを初めとして、1950年代には学校で御写真を掲げる儀式を再開する動きが一部にあった。
奉掲所は、絵馬や揮毫、宗教に関連したオブジェなどを掲げる場所であるが、戦前は御真影を掲げる場所も意味し、戦前の公的機関や学校の内部、または外部の独立した建物に奉掲所(奉安殿)が設置されていた。 戦後、御真影を掲げる奉掲所の多くは取り壊されるなどの措置がなされたが、1935年に建設された富山県庁舎や1938年に建設された和歌山県庁舎内部には、かつての奉掲所の形状が伺える豪華なレリーフが残されている。
=== wiki 抜粋(ここまで)===
河村市長が表現の不自由展の再開に抗議して座り込む?このおじさん、何で「日本国民の心」がわかるのか?河村の同類の人々の感情でしかない。この種の主張をする人々は「一億一心」が大好きなのだ。なんという傲慢さ。 (山口二郎氏)