お付き合いをはじめてからしばらくしてK君の自宅に誘われた。

K君は公営の団地に両親と妹の四人ですんでいた。妹はまだ、中学生だった。

今は私の義両親、義妹になっている人たちだが結構面倒な人たちだ。

 
妹はなんというかコンプレックスの塊みたいな子だった。K君は、無口ながらも昔から周りには信頼感を与える人で、成績も部活も生徒会などの活動も評価をされていたらしい。
K君の妹(イモ子じゃかわいそうだからイモトアヤコから取ってアヤコちゃんにしときます。)
アヤコちゃんはそんな兄になりたかったらしい。


ただ、アヤコちゃんの兄のようになりたい、という気持ちのあり方はちょっと変わっていて、小さい頃は、「お兄ちゃんみたいに、立ってオシッコしたい」といって、当然びしょびしょに汚したりしていたらしい。

中学生でも、髪を短くきり、180cmくらいのK君のように、背を伸ばしたくて牛乳を1日2Lのみ、背も高くなっていたが太っていた。

学校でも兄のように、生徒会に入り、勉強も頑張っていたが、思うように成果がでなかった。そんな自分に腹を立て反抗期をこじらせていた。




私は三人兄弟だが、ライバル心を持つことがなかった。







子供の頃、遠い親戚に預けられていた私。祖母は私が
預け先に戻っていくと「あの娘がいないと静かでいいね」と平気で言ったそうだ。祖母は兄と弟を溺愛していた。特に弟はからだが弱かったから、祖母は毎日弟をおぶって、散歩をし、お日様に当てて「元気になりますように」と信仰する神様に祈った。

預けられた親戚や周りの大人、近所の小児科の医師は眉を潜めてみていた。忘れられないのが近所の医師だ。

年中になる年に幼稚園に通うことになった私はやっと親元に戻った。母は1つ年下の弟も年少のクラスにいれ、私に面倒をみるよう、言いつけた。

祖母に溺愛されて育った弟は私に対して暴君だった。口ではかなわない弟はすぐ暴力を振るった。
年の離れた兄が弟を押さえると、弟は祖母や母に兄にいじめられたと、言いつけて被害者ぶっていた。

幼稚園では自分のクラスに馴染めず、私のクラスに入り込み、帰らなかった。先生も諦めたように私の側に席を作った。

私は幼稚園では側に付きまとい、家では暴力を振るう弟に参っていた。度々身体の調子を崩し、園を休むことになった。弟もその時はズル休みをした。

本当に具合の悪い私はしょっちゅう自家中毒にかかった。掛かり付けの医師は私のストレスの原因を見抜き、
病院に付き添った母に聞かせるようわざと大きな声で
「Mariaちゃん、Mariaちゃんが大きくなってお嫁に行くときはいっぱい持参金持たせてもらいなさい。」


母は今でも、あの頃珍しかった職業婦人であった自分に対する嫌みだと思っているが、私は自分が親になって、たった4つの子が、ストレスで自家中毒に度々かかるその状況に医師は憤っていたのだと確信している。




そんな私であったが実は私は人が思う程弟に対してライバル意識もコンプレックスもなかった。


兄も、自分はあまり出来がよくなくて、年の離れた私や弟が進学校に合格したことを悔しがる人ではなかった。


なんというか「人は人」なのだ。





だから、アヤコちゃんが、そこまでK君に対してライバル心をもち、さらに追い付けない自分に腹を立て、自暴自棄な行動をとることに全く共感することはなかった。




今、遠くに嫁いだアヤコちゃんは相変わらずひねくれていて、数年に一度しか戻らない。親との関係をこじらせてる。

アラフィフのアヤコちゃんを私は「万年反抗期」と呼んでいる。