出国前に、

世界で最も持続可能な国スロベニア

ちょうどこの記事が上がっていて、益々楽しみになっていたスロベニア。

文字通り、自然の美のスケールが半端ではなかった!!

ちなみに、スロベニアの首都リュブリャーナは、ドイツ圏からスラブ人の国にしようてことでうまれた街で、「最大の愛」という意味だそうですラブ

街中のお土産やさんは、♡をモチーフにしたグッツが目につきました💓おねがい



◉美しきかなブレッド湖。

石灰質の氷河が溶けた水で成る、エメラルドグリーンのブレッド湖。


スロベニアは温泉療養地だったそうで、このような石灰水のぬるい水質の温泉だそうです。


ブレッドは、もともとドイツの皇帝からあずかったという歴史の地だそうです。


旧ユーゴスラビアは、ドイツの影響が根強く、この辺を統治していたのが、まさにドイツ系貴族、ハプスブルク家。

ヨーロッパを歩いていると必ず目にするのが、ハプスブルク家の紋章です。


ちなみに、ハプスブルク家はもともとスイスの田舎出身の、「白い鷹」という意味の無印貴族でした。ローマの膝下で、ローマ皇帝、ドイツ国王などの称号を手にし、どんどんヨーロッパ内で勢力を伸ばしていきました。

崖の上の古城がいかにも東ヨーロッパという感じで素敵です。

聖マリア教会は湖の中に浮かんでいます。

手漕ぎボートでいきます。エンジン搭載は、自然保護の為禁止されています。


教会からの眺め。

湖から教会までの階段も素敵でした。


ブレッド湖散策の後はポストイナへ100キロほど移動。

世界1の規模を誇る、ポストイナ鍾乳洞のスケール感は、マジで半端ではなかった!!!!

日本の鍾乳洞は北から沖縄までほとんど行っていますが、日本の鍾乳洞の100倍のスケールは余裕であります!!


入り口はなんてことのない洞窟の穴って感じです。

始めの2キロはこのトロッコに乗って行くのですが、ディズニーシーのインディージョーンズのアトラクションをまた100倍位にした感じです。
アトラクション感が半端ない!


小さく点々と写るのが、人間たちです笑。

スケールが凄すぎて、
もはや、
どこをどう切り取って良いのが分かりません笑。

トロッコを降りてからは1時間半くらい洞窟の中の山登りをしました。

可溶性石灰岩 の鍾乳洞 世界で一番最初に発見されたのがスロベニアカルスト地方の鍾乳洞で、だからここからとって、カルスト地形というのだそうです。

類人魚のホライモリ(プラテウス)

100年生きるそうです。研究をしていても、産卵の姿は未だ見たことがないというほど希少な生き物です。暗闇の中で生活するので目がなく真っ白でふ。ひょろっとちいさなウーパールーパーみたいな生き物でした。



・・・・

スロベニアは、旧ユーゴスラビアのひとつです。

またここで少し、陸続きの国々の事情をメモします。


そもそも、旧ユーゴスラビアとは、


ユーゴ=「南」という意味と、スロベニア、スラビア、スロバキア(チェコスロバキアのスロバキアです)、は「スラブ人」という意味の組合せでできた、つまり、「南のスラブ人の国」という意味だそうで、「北」を除いた、東西南のスラブ人で結束され、国が構成されていました。これがユーゴスラビアのはじまりです。




ちなみに、東ローマ帝国からみて西ヨーロッパに住まう人、または移住した人、フランク王国を指すフランク族(=槍の意味) は、ローマ帝国と睨み合い、北と東がフランク人、南と西がラテン人と、ライン川をまたいで割れたそうです。


フランク族はゲルマン人のことです。

そう、あの、「ゲルマン人の大移動」です。

社会科では、これが中世のはじまりだと習った記憶があります。




ちなみに、ドイツのフランクフルトは、この時の、「川の浅瀬」をフルトといい、フランク人がそこを渡ってフランクフルトとなったということのようです。ヘェ〜。



フランクって、気さくなイメージの単語で使われることがあるから、フランク人の気質から来てるのかなぁと、ウィキペディアをみてみたら、


「フランク(francus、franci)の語義は「勇敢な人々」[1]、「大胆な人々」[2]、あるいは「荒々しい」「猛々しい」「おそろしい」人々という意味であるとされている[3]。」


って、全然フランクではありませんでしたww




またまたちなみに、キリスト教にとって、ドイツとスロベニアの間にあるオーストリアは、「東の辺境の地」という意味だそうです。なるほど。



もはや、ゲルマン人とかスラブ人とかセルビア人とか、訳が分からないですよねw

それだけ複雑にぐるぐると民族が衝突したり利用されたりしていたんですね。


セルビア人ももともとはスラブ人だけど周りの国交の関係で、セルビア人とスラブ人との間に亀裂が入り、1989年に憲法によりバラバラになったといいます。



そもそも、セルビア人が固まって住むようになった経緯は、セルビア人は勇敢でよく闘ったそうで、ハプスブルク家がセルビア人自治区をつくって、セルビア人を兵士で雇用するために住まわせたということだそうです。プライドが高い民族性を戦争で利用したということですね。


時代って恐ろしい〜!

つづく。