私は過去は振り返らないタイプです。

 

もしもそういう状況になるとしたら、

それは、周りの人々

(家族やファンの方々など)の言動により

何かを振り返る感じになった、思い出した、

そういう事だと思います。

 

後悔、というのではありません。

 

私たちは、皆

それぞれが個性的な人生を生きます。

 

誰一人として同じではありません。

 

輝かしい人生を歩んでも

いつかそこに影が落ちる時も来るし、

そういう意味では、

大きな図を見ると、

私たちの人生は

平等に出来ているのだと思います。

 

私は中学生の二年生の後半くらいで、

国立(くにたち)音高を

受験したいと思いました。

めちゃくちゃ出だしが遅れました。

 

両親の協力と自分の努力により

ものすごく忙しい中学時代後半を

過ごしました。

 

毎週、水戸へピアノのレッスンに通いました。

(ここ数年、ライブを観に来てくれる

Midori先生です)

電車で水戸まで行き、そこから

先生宅まで20分ほど歩いていましたが、

受験が近くなると

毎週父が送ってくれました。

 

中三になってからは、

現役の国立音大の教授であった

岡田昭子先生にも師事しました。

 

中学の給食の用意の時も、

私は特別に音楽室で

ピアノの練習をする事を

許されていました。

特別扱いだったかもしれません。

 

高校の受験番号が配布された日、

東京は雪が降りました。

私が33番をとって欲しい、

と父に頼んだことから、

彼は雪の中に立ち続け、

33番の受験番号を

見事に物にしてくれました。

その時なぜか33番が、自分にとって

ラッキーな番号に思えていたのです。

 

受験の日、ピアノテストの日、

私は京都修学旅行で出会い購入した、

犬のトミーくんのぬいぐるみを

抱えていました。自分では全く

無頓着でしたが、

変わった子だと思われていたでしょうね。

 

合格発表の日、自分の番号(名前)を

見つけた時、信じられませんでしたね。

 

多くの生徒が付属中学から上がって来るので、

外からの合格者は50人ほどでした。

(今は知りませんが、あの頃は)

 

私は、ピアノの試験を上位で合格したので、

寮の中に練習室ももらえました。

楽典の試験は100点でした。

(と後から、師事していた先生から聞きました)

楽典も、東京へ通い、

一生懸命勉強したのです。

 

入学してからは、先輩と同室の寮生活も

パーフェクトには程遠く、

15歳で両親の元を離れた私は

ホームシックにもなりました。

 

そして高校2年から寮を出て、

下宿をしましたが、そこでも色々ありました。

 

で、最終的に原宿の

東郷女子学生会館に行き着くのですが。

 

寮を出た理由の一つに、

寮にいると、学校外のピアノの先生に

師事する事がなかなかし難い

という事がありました。

 

私には大きな野望があり、

なるべく多くのトップ・ピアニストの

先生方に教わり、

ピアニストの卵たちが集まる場所に

いたいと思っていました。

 

高校の二年生まではもう

バリバリのピアノ生徒でしたね。

 

これがその、

高校二年生時の演奏会です。

高校では海野先生に師事していました。

 

テレーゼと呼ばれるピアノソナタで、

私には少し可愛らしすぎる

雰囲気もありましたが得意なピースでした。

 

 

 

続く

 

真理