先ほど、何年も前にアップしていた
高校生の私が、
ブラームスのラプソディを弾く映像に
コメントが入り、それを観ていた。
なぜか、公開をやめていた
映像だと思っていたので
まだそこにあった事にびっくりした。
高校生の時、
私はバリバリのピアニストでした。
ピアノを弾いて稼いではいなかったけど、
そこら辺のピアニストよりは
全然うまかったです。もちろん、あの頃
自分にそんな評価はしていませんでしたが。
あの頃の私は音楽に関して、
今の私とほとんど同じ、いいえ、
もしくは、今の自分よりも
もっと酷い完璧主義者でした。
どんなに練習して発表会に出ても
決してパーフェクトには弾けない。
実はプロのピアニストもそうなのですが、
私は自分だけが出来損ないのように
感じていました。
いつも不機嫌な顔で
ステージを降りていました。
本当に、もう少し頑張れば
ピアニストになれるところを、
私は曲を100曲近く作って
デモテープを作り送り、
ポップ・ミュージックに逃げてしまった。
今となって考えると無念です。
まず、大学を辞めてしまった事は、
今でも引き続き
悪夢を見るほど後悔しています。
中学三年生あたりから
高校卒業までの私は、
本当に光り輝くピアノ弾きでした。
ケルンへの留学をやめて
デモテープを作る事になった理由の一つに、
その頃師事していた
杉谷昭子先生の言葉がありました。
私はドイツで寮生活をする時、
自分の曲を作り歌う趣味を
続けられるのか
とても心配でした。
それで、留学の準備をしている時、
先生に相談したのです。
すると昭子先生が
私にも聴かせて、と言いました。
それで先生の目の前で弾き語りを
しました。すると、
私が生き生きと輝いているから、
まずはそっちを目指してみたら、と
勧められたのです。
ピアノはある程度年をとっても出来るけど、
そっちの音楽は、今だよね、と。
それで、国立(くにたち)音大付属高校
ピアノ科から、大学のピアノ科を受験し
合格しました。(エレベーター式ではなくて
試験があります)
私の親友はピアノ科に進めず教育科へ行きました。
厳しいものなのです。
本人は大泣きしていましたが、
彼女はのちにピアノ教師になったので
その経験は素晴らしく生かされたと言えます。
ビクターと契約してすぐ
マクロスのオーディションに
行くように言われ、数ヶ月すると
私は世間の皆様から
声優と呼ばれるようになりました。
いや、声優ではないのです、
と取材で言えば叩かれました。
前の日までピアニストの卵だったのに、
目が覚めたら、
全然違う方向に
自分の名前が歩き出してしまった。
そしてその苦しみのようなものは
現在まで、38年に渡って続いているのです。
今はほとんど割り切っています。
でも、でもあの時ドイツへ行っていたら、
あの時、オーディションに行かなかったら、
私は、紛れもなく音楽の道一本で
進んでいたでしょう。
そして、頑なにまとわりつく
イメージとの戦いもなかった事でしょう。
ただ、
あの頃の私の鈴なりの声が
世界の人の心の癒しになったのなら
それはそれで良かったですよね。
でも、声優でちょっと成功したから
歌手になったんだろう、とか
そういう事を言われ続けた事に関しての
苦しみは、言葉では例えようがないものでした。
続く