観ました。

 

羽生さんがんばりましたが、

やはり、怪我からの初大会

という事もあって、

いつもより勢いがなかった感じがします。

でも、あそこまで出来る、というのは

やはり彼が戦う人であり、

チャンピョンだからです。

 

ネーサンは、前オリンピックのSPで

緊張してガタガタになり

”期待はずれ”だと

アメリカのマスコミに叩かれた後、

(もう何も失うものはない)と

気持ちを切り替え、

人々の記憶に残る

素晴らしいFPを滑ってから、

本当に強くなりました。

 

あのSP後、微妙な内容の

インタビューを何度受けても、

決して己を忘れる事はなかったです。

常に理性的でソフトでした。

あの姿に、私は感動して涙したものです。

 

髪も伸びました。おねがい

 

すべるごとに揺れるあの前髪。

数年前のネーサンより

何と色っぽい事か。

 

彼は Yale Universityで学んでいて

(さっきまでハーバードと

書いていました。ごめんなさい)、

スケートのコーチングは、

フェイスタイムを通じて

行われると聞きました。

 

一つの事に打ち込むのも大事ですが、

他にもフォーカスがあり、

気が紛れる、という事も

時に大切なのだと思います。

 

以前は、芸術性が

足りない感じもしましたが、

最近のネーサンは

そんな事は決してありません。

とてもアーティスティックで

美しい滑りです。

 

羽生さんが、

『負けは死も同然』、

と言った事が話題になっているようですが、

私は彼の意図するところがわかります。

彼は戦う人です。

そしてアーティストです。

 

それを公で言う事が正しいか、

正しくないか、

それはわかりません。

彼は東日本大震災にも

大きく関わっていましたし、

”死”と言う言葉は、

人の心に大きく影響を与えます。

痛みのトリガーになる事もあります。

 

確か、過去にも、

彼が死を考えた事がある、と

語った時がありましたね。

あの時もいろいろ言われましたが、、、。

 

彼は根っからエモーショナルな人ですし、

アーティストですから、

彼の強く感じてしまう

心を変える事は出来ないでしょう。

 

”死”と言う言葉は、英語では”Death”ですが、

彼も海外生活が長いので、

日本文化との逆カルチャーショックのような

ズレが出てきているのかもしれません。

 

もちろん、私もそれをたくさん経験しています。

 

愛する人や動物の死。

もちろんそれは死であり、

乗り越えるのが一番大変な痛みと

言えると思います。

 

 

例えば、皆さんが、朝ドラを

見るのを趣味にしていたとして、

ずっと続いていた

番組が突然終わってしまった日、

心にぽっかり穴が空いて、

行き場のない淋しさを感じますよね。

日本では、それを”なになにロス”、と

呼びますが、

本当のところは、

それも一つの小さな”死”です。

 

恋人や婚約者と別れるのも

一つの”死”。

 

手塩にかけて育てた子供(達)が、

大きくなって家を離れる

エンプティー・ネストも、

お祝いではあるけれど、

さよならの瞬間は、

母親の心には一つの”死”のように感じられる。

 

小さな死、大きな死、

いろいろな種類の死があり、

痛みの深さも人それぞれです。

 

羽生さんのように、

命ををかけて勝負する人にとって、

昨日のような負けは、

もちろん”死”のように感じるはずです。

 

そこまでの心意気で

生きていない方々には

わからない気持ちかもしれません。

多分、”感覚”が違うのだと思います。

 

そして、何もかもを、

震災などに結びつけて、

それを土台に考え言葉を選ぶのも

大変なことと思います。

 

彼の気持ちは彼の気持ち。

受け止めてあげようではありませんか。

 

何より、羽生さんが、

痛めている足を完全に治し、

また元気なパワフルな姿で

リンクに戻ってきてくれる事を

心から願います。

 

真理