自分語り | 安住麻里オフィシャルブログ「惑星マリー」Powered by Ameba

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  自分語り(注 劇的に長いです)



こちらミスiDのセミファイナル選考期間でチアーズにのせていたものです!

最終的に今の審査で残れるかどうかは15日にならないとわかりませんが、わたしのこれまでおもってきたことを記しました!


それではどうぞ!!笑









私にはミスiDにとどまらず、世界の片隅で誰にも気付かれてないような感覚があって、それはこの芸能活動を15年続けてきてるうちの10年くらいかな?


15歳から活動をはじめて最初の5年くらいは「芸能活動してる!」っていう実感が持てていた。


デビューは雑誌の専属モデルで、そのオーディションのカメラテストの時に中学3年生の私は大阪から東京へ観光半分で親と訪れた。

原宿で78件の芸能事務所からスカウトを受け、その中には名だたる大手事務所の名も連ねていて、数件の事務所さんはわざわざ大阪に足を運んでくださって「うちに入ってください!」とお願いされた。「えっ!!!なにこれなにこれ!めっちゃ私すごくない?」という心境のなか、どの事務所に入ろうか選び放題な状態で初めの事務所にお世話になることになった。

そこからは目まぐるしくて、ただの中学生だった私は学校の許可を得て時々学校を休んで撮影に行ったり、夏休みや冬休みは泊まりで東京に行ってオーディションや撮影の毎日。

オーディションも超大作系の映画や超有名企業のCMばかりで、雑誌の撮影でも凄く良くしていただいて、新幹線で東京駅に降り立った瞬間からいつも非日常の境界線を感じていた。「わたし芸能活動してる!」とひしひしと充足感を持っていられて「これからどんどん仕事が増えて有名になるんだ!」と割と調子に乗りやすい私は未来への希望盛りだくさんでいられた。

なんにも知らない調子乗りの中学生が突然チヤホヤされまくった結果、売れる前から気持ちだけはイケイケな天狗マンへと進化した!


体型維持やモデルとしてお洒落でいるための勉強などそれなりに努力もしたけどなかなか生意気だったと思う。

我の強さから業界が求める純朴で素材のまんまな十代から逃げて、自分で思うお洒落でカッコイイ姿を表現することに拘っていた。眉毛の形とか髪型などなど。

この頃にミスiDがあったら「そうそうこういうのがいいんだよ!!みんな一緒とかきもちわるいねん!なんで業界はみんな"明るくて素朴で素直な感じ"ばっかり求めるの?」といの一番に参戦していただろう。

まあ生意気だったしあんまり言うことも聞かず、ひと昔まえの女優たちの売れるルート「雑誌のグラビアからドラマへ」を何より拒否し、水着はぜったいいやだ!!!と髪を自分で抜きまくる程度には病んでしまい、そうそう売れることもなく数年が経った。



一番の打ち上げ花火は連続ドラマ「セーラー服と機関銃」長澤まさみさんの友人役でレギュラーで出演したこと。初めての演技で何もわからないまま、当時よく言っていた表現は「レベル1でボス戦にいった気持ち」だった。

なんのスキルも技も魔法も使えないまま分からないなりに必死にやった。大学一年生の頃、毎週撮影のために大阪から東京を行き来して「芸能活動」してる感満々で、「この先は明るい」と信じてやっていた。

カメラが回るタイミングがわからない、何度も同じシーンを撮るのだけど、目まぐるしくてどこから撮り直すのかわからない。だけど自分が聞くことで多くの人の動きを止めてしまうという恐怖からなにも聞けないでただ神経を張り巡らせて芝居をしていた。

良い仕事をすれば次に繋がる。誰かが必ず見ていてくれている。これは今の私はとても強く実感として信じている言葉で、この時の私には、この仕事のあとに直接繋がるものはなにもなかった。つまりはそういうこと。


相変わらず水着は拒否するわ次に繋げないわで呆れ果てられただろう。わたしとしても周りの見えない生意気野郎だった為、「水着はしません」の一点張り。方針の違いから事務所を辞めることにした。いまおもえば一生懸命売ろうとしてくれていた熱意や、大きな仕事を沢山振ろうとしてくれていたことにただただ感謝している。

それがなにより私という商品に価値を感じていてくれた証拠だと思える。


それから次の事務所に入るまでいつか上京するための資金をアルバイトで貯めながら過ごし、ちょうど確か20歳の頃に大阪を拠点として活動出来る事務所に所属した。


食レポやタウン誌、再現ドラマなどコツコツと下積み活動を行いようやく生意気モードの私は消滅。以前よりは幾分事務所の求めることを理解して行動出来るようになれた。

元来そんなにハイテンションではない私はレポート仕事が大の苦手で「〇〇にやってきましたーイエーイ!」みたいなノリになりきれず、めちゃくちゃに怒られる日々。食レポに関してはトラウマから、「食べる時は気の利いたコメントを言えないとダメだ!!」という気持ちからいつなにを食べても脳内食レポが自動ではじまってしまう病を患った。この病は現在も治っていない。きたる食レポの際には大変役立つだろうとある意味感謝している。


レポート番組は不器用ながら、下手くそながら必死にやり、食レポ病もそうだけど苦手意識が続いたことで結果的に今の私はきちんとレポートが出来るように進化することができた。


当時「お前みたいなもんは絶対売れへんからな」とめちゃくちゃに怒ってくるプロデューサーへの怒りと闘争心はやがて、今のままだったらいけないから怒ってくれてたんだな、諦められずに叱ることにエネルギーを割いてもらえてたのはありがたい環境だったな。というところに至った。


書いててダメすぎるな私と落ち込んできたが、なんでもすぐ上手にできなかったわけではなかった。そうそう。トークとナレーションだけは褒めてもらっていた。


一度明石家さんまさんの番組にゲストで出させて頂いた際は自分の出来るだけのことをして結果その放送を見たラジオ局から面白かったと声がかかりラジオのレギュラーを獲得。


先ほどのレポート番組では商品CMのようなコーナーがあったのだけど、その時だけは鬼プロデューサー(ごめんなさい)も唯一褒めてくれていた。


「ちゃんとやれば誰かが見ている」というこの世のルールをすこしずつ分かり始めてきたところで、遂に上京を決心。事務所の東京支社にお世話になることになった。


意気揚々と上京したはいいが、引き続き再現ドラマやタウン誌などの仕事をしつつCMオーディションでたまにCMのすみっこに出たり大河ドラマのすみっこに出たりの毎日。

仕事は月に一回か二回。

ほかはずっとバイトバイトバイトで、この業界あるあるの急にスケジュールを空けないとオーディションや仕事を受けられないという性質から、シフト融通が効くテレアポのバイトを始めた。

これに関して色々語りたいことは沢山あるのだけど話がそれるので今回は割愛。一言で言えば「時給はいいけどしんどい!」


その頃から自分が芸能界にいる実感が持てなくなった。バイトばっかりで生きる日々、たまにある仕事を大層ありがたがって丁寧に丁寧に活動。


お芝居が上手くなるだとか、CMに毎回受かるだとか、打開策はあったがそうそう上手くいかず、だけどもどの現場でも誰かが見ていてくれると信じて毎回祈るような気持ちでいただいた仕事にたいしては全力を出し続けた。


その頃、趣味だったゲームやアニメを活かそうという話からウェブ上でコラムを連載がはじまり、これが後に人生の鍵となった。



コラム連載はただ楽しくて、自分の好きなモノを毎週紹介できることや、それについての反響、作者さんからのお礼の言葉なんかも凄く励みになったり何より仕事でアニメイベントに行けることもありがたかった。ほんとに好きなことは仕事としても上手くいくのだということを実感し始めるきっかけの仕事だった。


ちょうどその頃から舞台に初出演したり、生の演技の難しさと得難い経験とで役者への憧れが生まれた。以前ドラマに出ていた頃はきた仕事を受ける!頑張る!くらいの気持ちだったがこの頃から役者への認識が明らかに変わったと振り返ってみて感じる。


その後、よりマルチに活動したいという考えから役者メインの事務所から今の事務所に移り、今もとてもとてもお世話になっている秘密兵器と出会い舞台に立たせて貰い、人を楽しませることの真髄を目の当たりにし、その後トントン拍子でニュース番組のレギュラーをいただいた。ニュースには一ミリも関わったことのない私が選ばれた理由が「連載していらコラムが面白い」からだった。

生放送のなかで経済ニュース、株情報を端的にまとめて原稿におこしてプレゼンをする役割。株や経済にはふれたことがないけど企画を聞いただけでわくわむするような内容だった。

生放送で自分のかいた原稿を読む、伝える。しかも週5の帯番組。とんでもないことだった。

せっせと毎週書いていたコラムがこんな素晴らしい仕事を呼んでくれた。好きなことだったから楽しんでやっていた仕事が新たな仕事を呼んでくれたこの経験は今の私の柱となっている。

情報を伝える中でニュース番組だけども「ちょっとだけ・・」とフリップに絵を描いてみたら大ウケして、そこからゲストの似顔絵を経済ニュースに絡めて描くようになり、視聴者の皆さんやスタッフの方、そして描いた本人が喜んでくれる展開を受けて私大興奮。絵もまた小さな頃から私を支えてくれる趣味だった。好きなことが嬉しいことを呼んでくれる。これで私は進んでいきたいと心から思うようになった。


その後イラストとナレーションの仕事として映画番組「シネマ・アディクト」のレギュラーをいただき、「やっぱり寅さんが一番!」のナレーション

を担当する現在に至る。



ナレーションは以前から(鬼プロデューサーもほめてくれるほどの)好評をいただいていたものであり、実はナレーションも趣味のひとつだった。

幼少期から商品の説明をナレーターのおねえさん風に読み上げる遊びや、エレベーターガールの真似ばかりしていた。お気に入りは「ジョンソン&ジョンソン」ディズニーのシャンプーの説明書きのなかの「ジョンソン&ジョンソンだから 毎日素敵なバスタイムをお届けします」このフレーズを毎日毎日お風呂のたびに読んでいた覚えがある。


そんなわけで自分が楽しめること、好きなこと=正義という方程式ができあがった。


もちろんそんな定義は世の中にありふれているが実体験に基づいたものほど揺るがないものはない。


デビューしたばかりのような先の未来が眩しくてみえない期待感の塊はもう感じない。あれはある意味盲目的なものだったからなくなって当然だった。


今は細々だけど必要としてくれる場所があって、好きなことが好きなことをつなげていってくれていて、意外なジャンルの仕事と自分の持っていたスキルとの掛け算の面白さをしってそれがなによりの人生の楽しみとなっている。


イラスト、芝居、ナレーション、声優、デザイナー、キャラクタークリエイター、商品企画開発、絵本作家、モデル、歌、


パッと出てくるわたしのやりたいことたち

多すぎると思うし何か絞るべきだというのは正論だとわかっている。だけど人生何が起こるかわからなくて、世の中はどんどん新しく生まれ変わっている。決まりごとにとらわれたくなかった15歳のクソ生意気な私の根っこの部分はかわってなくて、既存のものにとらわれたくない、自分だけの自分を発信していきたいという気持ちだけは今でも大きく共感できて繋がっている。


これまで失敗してきた沢山の私に報いを与えるべく毎日めげずにいくのが今の心情のなか、この年齢だとオーディションすら受けることができないそんななか、


ミスiDの審査員全員の、それぞれに特化した素晴らしい才能たちに見つけられたい!そして新しい掛け算を生み出したい!そんな気持ちで応募したのがきっかけ。


今のトレンドなど意識せず、年齢やキャラクター性etc様々な要因から注目されない私。

そんななか私を見つけて応援してくれてる皆様。理解して応援してくれる知人友人家族、本当にありがとう!