図書館で本を借りて読んでいます。
林竹二さんという教育哲学者の方が書いた
「問い続けて-教育とは何だろうか」という本です。
表紙の少女の表情がとても印象的
中にも子どもたちのハッとするような写真が沢山掲載されています。
私が子ども哲学を学ぼうと思った時、
最初に手に取った一冊は
河野哲也さんの著書
「じぶんで考えじぶんで話せるこどもを育てる 哲学レッスン」
でした。
この本を読んで、子ども哲学に益々興味が湧いたので、
巻末の参考文献の載っている本を読んでいるのですが、
その中に紹介されていたのが林竹二さんの本です。
”教育哲学者”というと、書斎に閉じこもる学者の香りを感じるかもしれませんが、林さんは実際に教室で教鞭を振るった教育者でした。
でも、林さんが行った授業は算数や国語、理科、社会といった、言わゆる学校で習う科目の授業ではないんですよ。
「人間について」の授業です。
人間についてって何と思うかもしれませんが、
例えばビーバーの題材を通して追及される人間の “知”の本質だったり、
狼に育てられた人間の子アマラとカマラのことを教材にして、
「人間を人間たらしめるものは何か」を追求する授業を行っていました。
面白そうですよね
人間にとって学ぶとはどうゆうことか
6歳になったから自動的に小学校に入学し授業を受けるようになった子どもたちにとっては、
「なぜ学ぶのか」について改めて考える時間になったはずです。
著書を読むと、林さんの教育論・教育観がくり返し出てくるのですが、その一つに
「学んだことの証しは、ただ一つで、何かがかわることである。」
という物があります。
「人間について」の授業は林さんが子どもたちに人間について「教え込む」授業ではありません。子どもたちに人間について「問わせる」授業です。
林先生の授業や質問を通して、子どもたちは人間を人間たらしめるものは何かを自分の中で深く問う様になる。問いを突き付けられることになる。
「自分に問う」ことって、本当に骨が折れます。
私は大学受験の科目に小論文があったのですが、予備校の小論文の授業では何度も「自分に問いなさい」「自分の中の深いところに降りていきないさい」と言われました。
でも、自分の中に問いなんて何にもないんです。
問題意識もない。
言いたいこともない。
「わたし」なんて何もない。
白紙の解答用紙を前にショックを受けたのを今でも覚えています。
「17年生きて来て自分の中に何もないって何、、、」
「今まで何していたんだろう、、」
「恥ずかしい、、恥ずかしすぎる~」
と不安で仕方がなかったです。
でも、その教室にいた生徒たちは似たり寄ったりの不安の中にいたんだと思います。
当時の小論文の先生は私たちの心を揺り動かそうと熱い授業をしてくれました。
自分の中に何もないなんてことはないんです。
自分の中に問いを持つことを知らなかっただけ。
慣れていなかっただけです。
最初は苦しいけど、少しずつ自分の中に降りていく方法が分かれば自分の中にある力を信じられる様になります。
林竹二さんの言う「学ぶ、変わる」は、
自分の中に変わる力がある、成長する力があるという事だと思います。
「追い詰められて、自分の今までの考えを捨てるということが無くては、自分が自分を乗り越えるという事はあり得ない」これも林さんの言葉ですが、誰かに追い詰められるのは恐怖ですよね。私は嫌です 笑
でも「自分に問う」とは、自分で自分を追い詰める行為だと思うんです。静かに、じっくりと、自分のペースであきらめずに問い続けること。
誰かのためではなく、自分のために自分に問う
こんな孤独な時間も人間には必要だと、私は思っています。