十文字を懐に、山を歩く ――ある夢と、母と、名の話―― 数日前、ひとつの夢を見た。 白い和紙に、暗号のような一文字が書いてある。それを四つ折りにし、懐に入れて、鬱蒼とした山道を歩いている。 行く先々は山村で、私は村人に同じものを持つ若者を知らないかと尋ねて回る。 だが、どの村でも答えは同じだった。 文字の意味は分からない。ただ、以前、同じようなものを持ち、誰かを探して歩いていた若者が居た、という話だけが残る。 その夢の道行きには、ひとりの女性が随行していた。 街娘の日本髪。顔を見れば、腹違いの妹だった。 妹の名は、真姫(マキ)。 幼い頃は、お転婆で、いわゆる兄ちゃん子だった。 彼女は丙午生まれ、火の兄の年回りを生きる人間だ。 私は目覚めてから、懐に入れていた和紙の意味を考えた。 四つ折りにされた紙。 天と地、左右、陰と陽。 それは十文字――天と地の統合を顕す型ではないか、と思い至った。 妹や姉の名を付けたのは、実の父だ。 父の名は匡昭(マサアキ)。 姉は匡子(キョウコ)、妹は真姫(マキ)。 「匡」は整え、正す文字であり、「真」は偽りのない核を示す。 名は、生き方を縛るものではない。だが、時に、その人が担ってきた役割を、静かに照らす。 姉は長年、看護の現場と教育の場に身を置いてきた。 妹は一度つまずき、戻り、そして新たな縁を得て、今は群馬で穏やかに暮らしている。 その群馬から、私が塩釜に行くと聞き、一族郎党を連れて駆けつけたという。 その車を運転していたのは、妹の第一子だった。 夢の中で探していた「若者」は、 もう現実のどこかで、次の道を走り始めているのかもしれない。 この一族の中心に、母が居る。 母は看護師として働き続け、定年後もケアマネジャーとして人を支え、今は静かに引退している。 先日、電話で話した折、私が「目が悪くなってきた」と言うと、母は間髪入れずにこう言った。 「それは目が悪くなったんじゃない。 目が古くなったんだよ。」 劣化でも、嘆きでもない。 時間を生きた結果としての変化を、ただそう呼んだだけの言葉。 看護という仕事を生き切った人の、実に自然な受け止め方だと思った。 夢の中で、私は十文字を懐にしまったまま歩いていた。 まだ開かず、まだ語らず、ただ持っている。 随行していたのは、火の年回りを生きる妹だった。 この夢は、何かを成せと急かすものではない。 ただ、こう告げているように思える。 ――すでに、天と地は分業され、 ――すでに、誰かが地を支え、 ――すでに、次へ渡る火は動き出している。 ならば私は、急いで答えを示す必要はない。 懐にある十文字を、必要な時に、必要な形で開けばいい。 母がそうであったように。 名もなく、声高にならず、 ただ、在った事実として。