アファメーションから包丁の先へ ——料理人の内面に起きていること—— 世の中には「アファメーション」という言葉がある。 自分で言葉を選び、自分に暗示を掛け、望む状態へ導く技法だという。 しかし、以前から私は違和感を覚えていた。 自分で考え、自分で書き、自分で意味を理解した言葉を使う時点で、 それは本当に「暗示」なのだろうか。 それはむしろ、明示ではないのか、と。 己を知ることが出来なければ、何も成し遂げられない。 それはイロハのイの字だ。 だが同時に、自分の癖や弱点ほど、自分では見えにくいものもない。 多くの場合、それは周囲の方が、ずっと冷静に見ている。 仏教でいう「依正不二」。 自己(正報)と環境(依報)は切り離せない。 確かに理屈としては分かる。 だが、ふと立ち止まる。 ——では、その「周囲」は、どこまで信用出来るのだろうか。 自分に見えている周囲の実態は、 脳が忖度し、編集し、「見たいものだけ」を見せた結果ではないか。 世界はそのまま見えているのではなく、 常に加工された映像として立ち上がっている。 そのことを自覚した時、 私は「虫の知らせ」という言葉の意味が、ようやく腑に落ちた。 虫の知らせは、神秘でも超常でもない。 脳が理屈を組み立てる前、 言葉になる前、 身体と経験が拾い上げた微細な違和感だ。 だから説明が出来ない。 出来ないのが正常だ。 この感覚に頼るようになると、 自分の書くレシピが、自然と「回りくどいオウンレシピ」になっていった。 「何分茹でる」とは書かない。 代わりにこう書く。 ——〇〇が▲▲の状態になるのを待って火から下ろす。 理由は、この後、この食材にこういう役割を遂行させる為。 結果として、文章は長くなる。 回り道に見える。 だが、それは遠回りではない。 時間や分量は、条件が揃った時にしか通用しない。 状態と役割は、どんな台所でも通用する。 どれほど高価な料理書を手に取っても、 この形式の料理書を見たことがない。 だから独自であり、オウンレシピなのだろう。 世にある料理書の多くは、 真似させる為の構造をしている。 一方で、肝心な判断の理由は書かれていない。 時にそれは、 「人に真似させない為のバリアなのではないか」 と感じるほどの不親切さを帯びる。 私は、出来る限り「転ばぬ先の杖」を書く。 失敗は、人にとっては学習になり得ても、 食材に対しては申し訳が立たないからだ。 生きている食材、 あるいは、生きていた亡骸を、 包丁と火と水で調理する行為は、 地球上の生命循環の営みの、ほんの一工程を担っているに過ぎない。 その自覚無しに、料理人は務まらない。 だから私は、 豊受大神も、磐鹿六雁命も、 天照大御神のお膝元で、今も生きていると感じている。 それは信仰の話ではない。 作用の話だ。 循環の話だ。 もし務まっていなければ、 あの世から吉田兄弟の二柱が、 何を通信して来るか分からない。 そう思うと、今でも少しおっかない。 現に、出張料理で他所の台所に立つと、 一つ一つの調理の度に、 修行時代、その料理を作っていた時の映像が、 脳裏でVTR再生される。 叱られた当時の音声付きで。 調理の最中でなくとも、 ふとした瞬間に、 彼らから電話が掛かって来ることもある。 声の質も、トーンも、当時のままだ。 ただしそれは、叱責だけではない。 ニヤリとして 「やればできるやないけ」 という場面も、引き出しには確かに在庫している。 迷った時、答えが見つからない時、 こちらから呼び出すこともある。 大事なのは、 その声に支配されていないこと。 最終判断は、常に自分が下していること。 声は命令ではない。 安全装置だ。 確認装置だ。 声が聞こえるうちは、 まだ料理人でいられている。 何も聞こえなくなった時の方が、 よほど怖い。 アファメーションの言葉よりも、 他人の評価よりも、 その声の重さを、私は信じている。 それは暗示でも、明示でもない。 長い時間を掛けて、 技と倫理と責任が、 身体の中に沈殿した結果なのだと思う。 そして今日もまた、 包丁を持つ前に、 一瞬だけ、 その気配を背中で感じている。