守るということ | まれすけのギター日記

まれすけのギター日記

ボツボツと趣味でやっているギター。それにまつわる話や、大好きな映画、読書の話、なーんの関係もない話などをいろいろと書き連ねてみようと思っています。

家族や恋人や友達は、自分が楯になることで守れる。


そこには、理屈や理論や言い訳など必要がない。

ただ自分自身が「守る」ということを心に決めてしまいさえすればいい。


守る側と守られる側のリレーションが、攻撃する側に向けてつながってさえいればいい。


誤解を恐れずに言えば、攻撃する側が、正義かどうかも関係ない。

常識かどうかも、必然かどうかも、普通かどうかも、全く関係ない。

そのとき守るべき家族や恋人や友達が、そして、自分が、攻撃する側を「悪」だと決めてしまえばいい。




しかし、守るものが「組織」である場合は、そういうわけにはいかない。


もともと「組織」には、その組織なりの存在意義があって存在しているわけで、それが大きいか小さいかにかかわらず、自分がそこに所属している以上、そこに働く人(同僚・先輩・後輩・上司・・・)にかかわり、「世間」というものにかかわっている。


だから、自分が考えていることが、組織の存在意義やそこに働く人や世間とズレていてはならない。


自分が「組織」を守る理由は、そこに働く人や世間が考える正義であり、常識であり、必然であり、普通でなくてはならない。


にもかかわらず、「組織」を守る手段として前段の手段をとるならば、それは、守るどころか、逆に攻撃する側の格好の材料になり、攻撃される前よりももっと大きな傷が、自分ではなく、「組織」に与えられることになる。


そして、その傷は、守ろうとした「組織」そのものを崩壊へと導く。


「船場吉兆」の一連のニュースを見るにつけ、そんなことを考えた。


誰かひとりだけでもいい、「ほんとのことを言いましょう」ってならなかったのか?

早いうちに全ての非を認め、責められるのは過去の過ちだけにできなかったのか?

隠蔽という新たに責められる材料を、なぜ作らねばならなかったのか?


残念でならない。