家族や恋人や友達は、自分が楯になることで守れる。
そこには、理屈や理論や言い訳など必要がない。
ただ自分自身が「守る」ということを心に決めてしまいさえすればいい。
守る側と守られる側のリレーションが、攻撃する側に向けてつながってさえいればいい。
誤解を恐れずに言えば、攻撃する側が、正義かどうかも関係ない。
常識かどうかも、必然かどうかも、普通かどうかも、全く関係ない。
そのとき守るべき家族や恋人や友達が、そして、自分が、攻撃する側を「悪」だと決めてしまえばいい。
しかし、守るものが「組織」である場合は、そういうわけにはいかない。
もともと「組織」には、その組織なりの存在意義があって存在しているわけで、それが大きいか小さいかにかかわらず、自分がそこに所属している以上、そこに働く人(同僚・先輩・後輩・上司・・・)にかかわり、「世間」というものにかかわっている。
だから、自分が考えていることが、組織の存在意義やそこに働く人や世間とズレていてはならない。
自分が「組織」を守る理由は、そこに働く人や世間が考える正義であり、常識であり、必然であり、普通でなくてはならない。
にもかかわらず、「組織」を守る手段として前段の手段をとるならば、それは、守るどころか、逆に攻撃する側の格好の材料になり、攻撃される前よりももっと大きな傷が、自分ではなく、「組織」に与えられることになる。
そして、その傷は、守ろうとした「組織」そのものを崩壊へと導く。
「船場吉兆」の一連のニュースを見るにつけ、そんなことを考えた。
誰かひとりだけでもいい、「ほんとのことを言いましょう」ってならなかったのか?
早いうちに全ての非を認め、責められるのは過去の過ちだけにできなかったのか?
隠蔽という新たに責められる材料を、なぜ作らねばならなかったのか?
残念でならない。