「ビョーク」とは「カバノキ」 | ノイズのなぐさめ

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歪んだ美意識。
ちっぽけ 些々たる しがない
たわい無い 些末 末梢的
スマート、スィート、デンジャラス
大切なのは長く働くこと。

ヒッピームーブメントに影響を受けた両親(ちなみに両親は彼女が1歳の時に離婚している。母の再婚相手はギタリスト)のもと、4歳の頃から作曲を始め、7歳から地元の音楽学校に通いフルートやピアノ、クラシックを学ぶ。
1977年に母ヒュドゥルの勧めで弱冠12歳にしてアルバム『Björk Guðmundsdóttir』でデビュー(アルバムジャケットもヒュドゥルが手がけている)。 アイスランド童謡を歌ったこのレコードで、アイスランド国内で爆発的な人気を得る。しかし彼女自身はカバーばかりで自分の曲が1曲しか入っていないこのアルバムに満足していない発言を後に残しており、レコード会社からの2枚目のアルバムの話を断り、天才少女の肩書きと決別する。
さらに、アーティストたるもの新しいものを創造することが使命であり、過去の作品を演奏することの多いアカデミックな音楽教育に疑問を呈する発言をしており(しかし数十年後、この頃の仲間たちは『ホモジェニック』でストリングスを担当してくれているのだが)、その後アイスランドに訪れたパンクの波に影響され13歳で「Tappi Tíkarrass」(タッピティカラス)などのいくつかのバンドを結成。さまざまなパートを担当する。
1986年、ギタリストのソール・エルドンと結婚し、6月8日に息子シンドリを出産(ソールとは1987年に離婚)。また、この日にギターポップバンド「The Sugarcubes」(ザ・シュガーキューブス)を結成。夫と共に立ち上げたレーベル「バッド・テイスト」からデビュー。英語で発表した曲はアイスランドのみならず英語圏でも注目を集めて人気インディーズバンドとなり、1990年にはワールドツアーを行い、来日も果たす。
ザ・シュガーキューブス解散後、1993年にソロアルバムをリリース。ソロとしては3枚目であるが改めて『デビュー』と題したこのアルバムはハウスを取り入れた先鋭的かつポップなサウンド、天真爛漫でフォースフルなボーカルが大々的にフィーチャーされ、世界的にヒットした。
日本との関係も深く、若い頃には東洋的な顔立ちからチャイナ・ガールとあだ名をつけられたり、日本人に似ていると周囲に指摘され、三島由紀夫などの日本文学を読んでいた。また、幼少時に観た日本映画『鬼婆』に形容しようのない印象を受け、日本に強い興味を抱いていたという。また、空手をしていると公言したり「アーティストとして初めてリスペクトされていると感じたのが日本」ともコメントしている。その影響か日本人アーティストとコラボレートすることも多く、アコーディオン奏者のcoba1995年のワールドツアーに参加。アートディレクター石岡瑛子にはミュージックビデオの監督を依頼。dokakaヒューマンビートボックスでアルバム『メダラ』に参加した。川久保玲ジュンヤ・ワタナベの服を好んで着ることでも有名。また、写真家 荒木経惟のファンであり、彼が撮ったポートレートをテレグラムのジャケットに使用した他、荒木のドキュメンタリ映画『アラキメンタリ』に出演したり雑誌などでも盛んに共演している[1]
2000年、ミュージカル映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に主演。ゴールデングローブ賞主演女優賞、最優秀オリジナル・ソング賞にノミネート。カンヌ国際映画祭パルム・ドール、最優秀女優賞を受賞した。また、劇中での音楽を担当し、アルバム『セルマソングス』をリリース。グラミー賞とアカデミー賞にノミネートされ、アカデミー賞会場ではマラヤン・ペジョスキーがデザインしたスワンドレスを着てレッドカーペットに現れ、ステージで劇中歌「I've Seen It All」を披露し、大きな話題を呼んだ。 日本では2001年の正月映画として公開されヒットした。
2004年に行われたアテネオリンピックの開会式で「Oceania」をパフォーマンス。
2005年7月2日DREAMS COME TRUEDo As Infinityなども参加した幕張メッセLIVE 8 Japanコンサートでライヴ・パフォーマンスを披露した。LIVE 8はG8八カ国同日に行われたイベントであり、世界貧困撲滅キャンペーンの一つである。
同年、ビョークは日本についての映画『拘束のドローイング9』への出演とサウンドトラック創作に打ち込んでいた。同作を製作したアーティストのマシュー・バーニーは現在のパートナーであり、彼との間に娘イザドラをもうけている。