上田重安は信長麾下の丹羽長秀の配下であったが、戦場各地で武功を重ね、それが認められて晴れて越前にて1万国を与えられて大名となる。
だが時代は信長から秀吉へ移り、重安も秀吉配下の大名として、賤ヶ岳、九州、小田原と転戦を重ね、やがて秀吉最大の失策である朝鮮出兵にも参加する。
再び時は流れ一代の英雄であった秀吉が消えると、豊臣家の家臣に甘んじてきていた徳川家康は、秀吉の死を契機に天下を狙うべく動き出す。
重安は豊臣方として関ヶ原合戦で西軍に参加するも敗退し、越前の領地を没収されてしまうが、重安の才能を勿体なく思う人物の取りなしにより、家康の許しを得られると、大阪との合戦では徳川方として参戦し戦功を重ねる。
豊臣家は倒れ太平の世を迎えると、重安は以前よりの趣味であった茶の湯と造園に生涯をかけるようになり、独特の庭園造りをする重安の名は広まり、諸大名は庭園造りを競って依頼するようになる。
風流武辺 (単行本)
津本 陽 (著)
上田宗箇流は400年の歴史を持つ武家の茶道です。
初め、丹羽長秀の侍児となり、後に豊臣秀吉の側近大名として抜擢され、茶の湯は千利休、古田織部に学んだ戦国の武将茶人上田宗箇を流祖とし、現在は上田宗冏宗匠が十六代目家元を継承しています。
上田宗箇は桃山時代を代表する作庭家としても名があり、国の名勝「縮景園」(広島県)、徳島城表御殿庭園(千秋閣庭園)、名古屋城庭園(二ノ丸庭園)、和歌山城西の丸庭園、粉河寺庭園(和歌山県)などを作庭し、広くその名を知られています。
豊臣家が滅亡した大坂夏の陣後、元和五年(1619)芸州藩主となる浅野長晟と共に広島に入り、広島県西部一万七千石を知行します。
上田家は代々一万七千石を知し芸州藩家老職をつとめるとともに、宗箇の茶の湯を今日に伝えています。
桃山時代に確立した「侘び茶」を桃山以来、武家の茶として現代まで途絶えることなく伝えており、武家茶の代表的な流儀と言われています。
四百年にわたって、戦国・桃山期の武門ノ茶を脈々と伝えている茶道、上田宗箇流の世界をどうぞご覧下さい。